東海道の昔の話(40)
実録、荒神山の血闘3愛知厚顔    2003/11/4投稿
 
 慶応二年四月八日(1866)
 午前十時ごろ福田屋、梅屋の両人に安濃徳からの返事は
  『解散の命令には従わない』
と言うものだった。それを聞いた公儀の御用聞たちは頭にきてしまう。
  『そんな了見なら仕方がない』
神戸の長吉と清水一家が荒神山に進撃するのを黙認し、場合によっては間接的に援助を与えると暗示までしたのである。
このとき福田屋、梅屋の召集に呼応して庄野宿に集合した公儀の手下は、すでに百余人にもおよんでいる。

 神戸長吉と清水一家は三十数名、これで四百余名の安濃徳と戦うのは、とうてい勝ち目がないと思えるのだが、一行の中には吉良の仁吉をはじめ、大瀬の半五郎、小松の七五郎、滑栗の初五郎、桝川の宮下仙右衛門、鳥羽熊、下矢部の平吉、半済村の庄太郎兄弟、三保の松五郎、奇妙院の常五郎、遠州生まれの小政、尾張桶屋の鬼吉、大野の鶴吉、大政など。
 いずれも剽悍決死の猛者たちが揃っており、その意気はさっそうとして何者にも勝る勢いであった。

 やがて彼らは荒神山に到着した。そして待ち構える安濃徳の前に進み出て
  『この賭場を当方に返還せよ』
と申し入れた。安濃徳は
  『何を寝言いっとるか!』
と応じない。それを聞いた小政は安濃徳の傍に進み、そこにいた手下数名をいきなり斬り捨てた。彼は居合い斬りの達人であった。
 こうして争闘がはじまったのである。

 双方が一斉にそこかしこで乱闘になっていった。あっという間に安濃徳の側の大田佐平治、福山喜内、角井門之助などの三人の浪士が、大瀬の半五郎、大政、小政らに殺された。
 また山辺の三蔵、島山の七五郎らは法院大五郎、こ組の栄太、大野の鶴吉、半済村の庄太郎、安太郎たちに倒されてしまった。
これで安濃徳は主要な五名を失ない、数十名の負傷者を出してしまう。もう安濃徳の敗北は歴然としてきた。

 しかしこのとき
  『ダーン!』
一発の弾丸が吉良の仁吉の左の太股に当たり、また頚部に刀傷を受けたのである。それを見て清水方は追撃を中止し
  『我らが勝った!勝った!』
と連呼して現場を離れようとした。安濃徳はこの仁吉の様子をみて、まだ勝ち目があると思ったらしいが、公儀の御用聞、福田屋勘之助、梅屋栄蔵たちが百余名を率いてこれを妨害し、十手を振るって逮捕しようとした。また信州からきた時次郎の一家も子分を率いて清水一家を援助しようとの気配を現した。
これを知ると安濃徳方はことごとく逃走してしまった。

 吉良の仁吉は出血がひどく瀕死の重態である。
 このとき広吉という男が戸板一枚と畳一枚を都合してきた。
それを地上に置いて仁吉を乗せようとした。この当時は世間一般では
  「ならず者は畳の上で死ぬことが出来ない」
とされてきた故であった。こうして吉良の仁吉は息を引き取ったのである。
 清水一家の中の大瀬の半五郎、尾張大野の鶴吉、広吉、鳥羽熊たちは安濃徳方に所属していた浪士、福山喜内に槍で刺されたが皆軽傷で済んだ。安濃徳側は死者五名、負傷者数十名に達しており、その損害は清水一家にくらべても大きく、これは衆心一致せずして統一を欠いたせいでもあった。

 吉良仁吉は闘争のときアメリカ製の拳銃を携帯していたが、桑名に上陸したとき誤って海中に落下させたので、肝心の個所が腐蝕してしまい、使えなくなっていたらしい。
 安濃徳方には雇いいれた猟師が猟銃を発射したのだが、彼らをうまく騙して雇い入れたので、隙を見て脱出を企てた者が多く、仁吉一人を傷つけただけに終っている。
 このほか清水方の法院大五郎は裸となり、松の丸太を振るって相手方をなぎ倒したという。また「こ組」の栄太は元江戸の火消しだが、彼も丸太を振るって相手を圧倒した。
 こうしてこの大喧嘩はようやく終息にむかった。

 公儀の御用聞である福田屋、梅屋、そして稲木の文蔵らは木綿、膏薬などと清水方に提供し負傷者に包帯などを施した。
また仁吉の遺体は白布で巻いて蔽われ、長吉が先導して伊勢湾の海岸に運ばれていった。そして海路船に乗って夜をつないて三河に去っていった。
「こ組」の栄太、半済村の安太郎、庄太郎たちは次郎長の子分ではなく、一宿一飯の仁義で応援したものである。
 仁吉の後見だった宮下仙右衛門は次郎長の甥である。
大政は元名古屋尾張藩先手槍組の小頭で本名を政五郎と言った。
小政に比べて身体が大きいので大政といわれた。尾張藩ではなにか失態があって追われた者である。だから荒神山で安濃徳方の浪士、太田佐平治を殺し、その槍を奪って敵方の角井門之助を刺し、彼を倒したのは槍術に得意だった経歴のせいであった。
彼の槍は一人で敵方の五、六人を相手にできたとある。大政の槍と法院の松丸太は稀にみる活躍であり、これを清水港では
  『清水港でこわい者何じゃ、大政小政の声かいな』

 安濃徳方の当日の目標は神戸の長吉だったのだが、長吉は高宮村の農業、弥右衛門方に潜んで隠れていた。
争闘が終息してから、のこのこ姿を現し子分と三河までいったのだが、三河の寺津の間之助が彼の刀を調べたところ、争闘を避けた事実が判明した。
 彼は怒って長吉を斬り殺そうとしたが、御油の玉吉が宥めたのでそれ以上にならなかった。
 この噂が広まると長吉は三河に居れなくなり、長吉一家は行方をくらませてしまった。彼らは賭場の収入が多かったため、身命を賭けて最後まで戦いをする者がいなく、三月廿二日の争闘の始まりごろから、ぼつぼつと脱走者が出る始末だった。
この一家は金のために博徒になっていただけであり、博打は富を得る手段だと割り切っていた。

 こうして次郎長は荒神山騒動の中心者、神戸の長吉と縁が切れたのだが、荒神山で倒れた吉良の仁吉の弔い合戦を計画した。
 彼は安濃徳に喧嘩状を突きつけ、五月五日に子分百三十人余を率い、二千両の軍資金を用意し千石積みの帆船三隻に分乗して桑名に向かった。
 これを知った亀山藩、神戸藩、幕府代官たちは合議し、
  『これ以上に事態を放置することはできない』
と、鎮圧抑制行動に入ることになり、各藩とも荒神山に藩士を派遣して監視させた。
 またこの騒動にはじめから介入してきた公儀の御用聞の福田屋、梅屋、武蔵屋周太郎、塩浜吉五郎、などを使い、両者の間の話合い調停はかった。
 その結果、桑名の上陸は三十余人だけとし、安濃徳に謝罪状を提出させることにした。この案を双方が合意したので南勢で和解の宴会を開き、無事に手打ちが成立したのである。
 その席上、安濃徳は剃髪し墨衣をまとって謝罪の言葉を述べた。それをみて各自はそれぞれ納得し、故郷に帰っていった。

 ここで史上名高い〔荒神山の血闘〕は完全に終息したのであった。その後、明治元年になると旧幕府直轄領を仮に亀山藩に支配させた。亀山藩の取り締まりはかってなく厳しく、盗賊や乱暴者、博徒の類を完全に駆逐してしまった。
 荒神山近傍の博打場は消滅し、それからの四月八日は観音寺に参詣するだけの、善男善女の世界に戻ったのである。「清水次郎長建立の三河吉良町の仁吉の墓」         
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 参考文献   龍渓隠史「位田武左衛門聞き書」
  
  
 
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