東海道の昔の話(42) 幕末京都の二人 愛知厚顔 2003/11/10 投稿 |
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慶応三年(1867)の五月下旬のある昼下がり、京都七条烏丸通りを一人の若い侍が歩いている。彼は生田周馬と言い、亀山藩から軍事方隊士として京都警備を命じられ、京都藩邸に駐在していた。 いまの京都は梅雨期の真っただ中、じっとしているだけで汗が吹き出る蒸し暑さだ。彼はいまにも降ってきそうな空を見上げた。 『京へきてもう何年になるか、いつになったら帰国できるのやら…』 そう倒幕の声はますます高まり、文久三年(1863)には禁門の変が引き起こり、京の町を大きく焼き払っていた。またちかごろは長州と新選組などの幕府側の過激な集団が、血なまぐさい争闘をくりかえし、京の町は殺伐騒然としていた。周馬のつぶやきは京都駐在藩士全員の本音でもあった。 そのとき突然、周馬のまわりを十数人の男が取り囲んだ。 『怪しい奴だ。何処の藩の者か?名を名乗れ!』 いきなり怒鳴ってきた。何のことか最初はびっくりして声も出なかったが、よく見るとどうも新撰組の連中らしい。 ”悪い相手に出会ったなあ” そう思ったのだが、周馬は高飛車な相手にカッとなってしまった。 あとになって後悔したが、そのときは若さがそうさせた。 『人にものを訊ねる前に、自分から先に名乗ったらどうか…』 相手を刺激しないように、静かに言ったつもりだが 『何をツベコベ言やがる。怪しいヤツだ。引っ立っていけ』 ”これじゃ何をいっても無駄、狼のような連中だな” 周馬はすぐに悟った。彼らは数の勢いにまかせて取り囲み 『さっさと歩け!』 そのまま彼を縛りあげて連れていった。 彼が連行されていったのは、塩小路通りと堀川通りが交叉する興正寺宿坊である。当時、新撰組が借り上げて屯所にしていた。 そこで莚を敷いただけの庭に座らされ、取り調べがはじまった。 『名前を名乗れ?、あそこで何をしようとしていた?』 周馬はもう腹が立ってフテ腐れ ”絶対に口をきいてやらんぞ” と腹を決めた。いくら怒鳴られても叩かれても口をきかない。厳しい取り調べは二時間にも及んだ。責めるほうもくたびれてきた。 そのとき 『ふてぶてしいヤツだすな。よし俺が尋問すっぺ。』 大声で襖を明けて庭に下りてきたのは、吉村貫一郎という南部盛岡藩脱藩の監察方担当である。彼は北辰一刀流の達人であった。 『なりから見ると、きちんとした御家中の方と思うが 何か話して貰わんと此方も困るんだす。わしらも 意味もなしに人は斬りたくないのだす。』 お互いの立場の違いがあり、思想信条が異なっても人間同士なら心を開いてほしい。彼はどうやら周馬を勤皇浪士と思ったらしい。 しかし吉村の背後にいる隊士たちは口々に 『吉村さん、ごちゃごちゃ言わずに早く斬ってしまえ!』 と叫ぶ。周馬はそれを見ると、亀山藩士だと打ち明ける機会を失したことを悟った。もうどうにでもなれという気になってしまっていた。 そのとき 『近藤だ。何をしている。』 声がして庭に下りてきた。庭の空気が一瞬ピーンと張りつめた。 さすが新撰組局長の貫禄である。 『どうした?』 彼は吉村に聞いた。吉村が説明するのを聞き終わると、近藤は愛刀の虎鉄をすらりと抜き、ビューんと一振りして周馬の首筋に刃を当てた。 『このまま冥途へ送ってやる』 いまにも血しぶきが飛ぶのか、周囲の人々は顔をそむけた。 だが周馬は自若泰然として顔色ひとつ変わらない。しばらくの間、そのまま緊張した時間が過ぎた。 『先生!待ってください!』 そのとき一人の男が飛び込んできて叫んだ。 『この男は伊勢亀山藩の者です。あやしい者ではありません。 元は私の同僚だった男です。名前は生田周馬と言います。 どうか許してやってください!。』 刀を持つ近藤の手を押さえて必死である。 『ほお…亀山さんか、そうなら早く言えばよいのに… しかし君は腹が据わっているなあ。感心した。 この男は君にあずける。いいように計らえ』 近藤は刀を納めると部屋に上がっていった。吉村貫一郎たち隊士も 『昔ばなしでもしなが藩邸まで送ってやれよ』 そう言って出ていった。 生田周馬を救ったのは小堀清太郎である。 彼は亀山藩大目付、奥平喜兵衛の三男である。彼は小堀家へ養子に出たのち、自分の意思で藩を脱し京都の新選組に入っていたのだ。 二人は久しぶりに思いがけなく出会ったのを喜び、お互いの近況など話しながら、亀山藩京都藩邸まで歩いていった。そして藩駐屯の責任者、近藤杢右衛門に詳細を報告した。近藤はこの二月に国家老から京都駐屯にお役変えになったばかりである。彼は 『よくわかった。だが周馬も悪いぞ。なんでこんな些細な ことを面倒にしたんだ。さっそく近藤局長にお詫びに伺う。』 軍事方頭取の堀池幸助と小堀清太郎を同行し、新選組屯所に出かけた。 そして近藤勇に面会し、今回の配慮に感謝した。そのとき 『つまらぬものですが皆様に…』 持参した土産を差し出したところ、近藤は 『いや、こんなご心配はご無用に願います。かの生田氏は 実に腹の据わった男です。大事に扱ってやってください。』 丁重に受け取りを断ったのであった。 こんなことがあってから、生田周馬と小堀清太郎は閑を見つけては逢うようになっていった。 しかし時代はいよいよ風雲急になる。 明治元年(1868)正月三日夕方、京都鳥羽の小枝橋付近でとうとう戦いが始まった。王政復古による天皇親政のスタート、そこで徳川将軍家の領地返還を求めた朝廷、薩摩、長州らの処置を不満とし、旧幕府軍は正月一日に挙兵した。 彼らは大阪から京都へ攻め入ろうとしたので、新政府軍はこれを迎え討つ。薩摩軍と鳥羽街道を北上してきた旧幕府側、桑名藩兵との間で衝突してしまった。 これが合図となり、鳥羽伏見方面で全面戦争に突入した。 初日は旧幕軍が圧倒していたが、二日目に仁和寺宮が征討総督に任じられ、錦の御旗が出現するに及んで、旧幕府側が朝敵になってしまった。 これで一気に形勢が逆転し、さらに藤堂藩兵が戦いを放棄したのが追い討ちとなり、旧幕側は総崩れになってしまった。 惨たんたる敗残の兵たち。彼らは大阪へ群れをなして落ち延びる。 その中に新選組隊士たちもいた。小堀清太郎の姿もあった。 この数日の戦いで新選組は廿一名もの戦死者をだしていた。 彼は足を負傷したのか、一緒に戦った地元鳥羽藩第二響導、向井鉄之助に肩を抱えられやっと歩いていた。 二人は小高い丘の上に、なんとかたどりついた。 「ここを下れは大阪の地だ。そしてその先は大阪城がある。 そこには御大将徳川慶喜様が指揮をとっているはずだ…。」 『もう少しだ、よし頑張ろう!』 声を出して立ち上がり、歩き出そうとしたそのとき ”ダーン” 物凄い炸裂音とともに土煙が舞い上がった。 その煙りが晴れていったとき、向井鉄之助が目にしたものは、声もなく倒れている小堀清太郎の姿だった。 明治元年(1868)正月六日、これが亀山出身の唯一人の新撰組隊士の命日となった。 生田周馬は同僚の佐藤造酒介が病気になったため、亀山で療養させるため周馬も一緒に亀山に戻された。そして六月二十三日に 『軽率な行為だったので閉門に処する』 と処分がきまった。しかし日ならずして許され、再び次番に登用された。これは彼の行動は軽率だったに違いないが 「あの新選組の近藤勇をうならせた男だ」 という賞賛の声も無視できなかったためである。 やがて亀山藩の藩論も勤皇一色に傾く。彼は新しい明治の時代を目にすることが出来たのである。 新撰組隊士、小堀清太郎の墓は亀山市御幸町の本久寺にある。 |
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