東海道の昔の話(45) 近江佐々木氏と関氏 愛知厚顔 2003/11/19 投稿 |
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滋賀県蒲生郡安土町石寺。 ここに我が国最大級の山城跡が残っている。古い時代から山頂近くに西国札所第三十二番の名刹、観音正寺があるので観音寺城という。 そこには標高432mの山の東南側全体に巨大な遺構を残し、別名を佐々木城とも呼ばれる。 鎌倉初期からの近江守護職、六角佐々木氏の居城である。一般に佐々木六角と呼ばれていた。応仁の時代に築城され、弘治、永録の戦国時代を迎えるころ、佐々木氏の支配下にある近江南部の各武将がこの城中に屋敷を構え、兵を置いていた。 そのころ北勢地方は俗に四十八家と言われる、群小領主武将たちが群雄割拠していた。三重県教育委員会の調査によると、城館は員弁郡、桑名郡、桑名市、三重郡、四日市、鈴鹿などに百以上もあり、それぞれ所領の拡大をはかって、あちこちで姻戚離合や合戦を繰り広げていた。亀山城の関盛信も四日市の茂福城と合戦を繰り広げていた。 この状況を知った佐々木六角は 『よし、これはよい機会である。伊勢を我が物にしよう』 と思い立った。彼はまず手始めに弘治三年(1557)三千の手兵で、鈴鹿山系の八風峠を越え、北勢の柿城(桑名郡朝日町)を攻撃した。 また菰野の千草城と同盟し、ここを拠点にして北勢の城を攻め、員弁の梅戸城、菰野田光城、楠山城、そして四日市の有力な武将、田原一族と友好関係を結んでいった。 このころ亀山、関、鈴鹿市付近には、関五家と呼ばれる関氏一族が伊勢国北勢で最大の勢力を誇っていた。関氏の祖は平清盛の孫、資盛につながる。その六代目関盛政のとき、五人の子供に亀山、鹿伏兎、峰、国府、神戸の五城を守らせた。 佐々木六角は北勢での勢威をさらに強固にする必要があった。 彼は 『よし、つぎの目標は亀山城にしよう』 関氏一族に定めると、臣下の小倉三河守に一軍を与えて攻撃させた。 しかし関氏の守りは固く、この亀山城攻略は失敗に終った。 そこで佐々木六角は婚姻での策略を考えた。彼は臣下の日野城主、蒲生定秀に 『そちの次女を関盛信に嫁がせてくれ』 と頼んだ。定秀の次女はすでに自分の部下と婚約していたが、主君の頼みを断れない。悩んでいるのを察した六角は 『この婚礼がまとまったら、五千石を進呈しよう』 と気前のいいところを見せた。結局、定家は承知し佐々木六角からの五千石を、そっくり持参金として娘に持たせた。また三女も神戸城主、神戸友盛に嫁がせ、ここに関氏と近江佐々木氏とは固く姻戚関係で結ばれた。 これで六角佐々木氏の本格的な伊勢侵攻、それはしっかり整えられたように思われた。 そのころ近江北部には浅井長政がいた。この長政に美人の妹お市の方を嫁がせ、姻戚友好関係をつくったのが織田信長である。そしてつぎの目標は佐々木六角である。 永録十一年(1568)九月、彼は大軍をともない突如、近江観音寺城にむかって進撃を開始した。おどろいた佐々木六角は 『至急、応援たまわりたし』 近江南部や伊勢の友誼武将に救援を求めた。この知らせが亀山に届くと、関盛信は叔父の盛重とともに軍兵を従え、日野の蒲生氏を助けながら、はるばると佐々木六角の応援に出動していった。 織田信長軍は近江平野の東山道の道筋にそって、一つ一つの小城を攻略し南下してくる。 九月十二日ごろには観音寺城に迫ってきた。 それをみた佐々木六角父子は城内で評定を開始した。そして 『もはや篭城しても叶わないだろう。いったん 城を明渡し時期を待って再起をはかろう』 と、あっさり決定したのだった。戦わずに退却敗北である。わずか一夜の出来事であった。 天下にその堅固さを誇った山城が戦うことなく落城した。 この最大の原因は家臣団の離反にあった。六角の有力な諸将の大半がすでに信長に通じており、もはや徹底抗戦の気力がまったく失せていたのだった。 その遠因は六年前にあった。佐々木氏の重鎮だった後藤賢豊という武将が、あまりにも有能だったために、彼の台頭を恐れた主君の佐々木義治によって謀殺されたことにある。それを知った他の武将たちも、 『つぎは自分がやられる番だ』 『早いところ見限ったほうが得策だな』 と疑心暗鬼に捕らわれ、主君佐々木六角から離れていった。 それにつけこんだ信長の策略勝ちということであった。 せっかく近江の地まで応援に出動した亀山城の関盛信と盛重だったが、この有様を知って 『佐々木の命運はこれで終った。応援する意味がない、 もはやこれまでだ』 その伊勢には信長の滝川一益軍が迫っており、ゆっくり安穏としてはおれない。 『伊勢へ戻るぞ!』 彼は大急ぎで兵をまとめると亀山城へと引き返していった。 戦わず城を明渡した六角氏の佐々木六角は、南を目ざした。まず甲賀郡に逃れていったが、さらに追われて伊賀に落ち延びていった。 これで実質的に近江は平定されたことになる。九月下旬には信長は京都東福寺に入っていた。 つぎに織田信長は本格的に伊勢侵攻を企てる。 永録十年(1567)に始まった攻撃は、翌年には四万の大軍に増える。 抵抗が強固な神戸城は三男を婿養子にし和睦で解決。つぎは亀山城などの関一族の征服にとりかかった。関盛信は叔父の盛重とともに亀山城から出撃し、諸家と一緒に織田の先鋒、滝川一益と合戦に及んだ。 しかし味方の武将もつぎつぎ降伏し、居城も陥落していった。 『いまはもはや止む無し』 関盛信は亀山城に帰って信長に降伏したのだった。 その後も一族の一部は抗戦を続けたが、元亀二年(1574)には関氏の五家は完全に織田信長に服従することになったのである。 秋、JR安土駅から歩いてまず安土城跡を訪ねた。ひと通りこの山を参観していったん下り、近江風土記の丘を経て隣の衣笠山にむかう。 長い石段を登ると桑実寺があり、それを過ぎてしばらく登ると観音寺城跡があった。まず目につくのは本丸跡の石垣である。 そして大きな石積みと草むした石段、それを踏みしめて登っていく。 すると猛烈な竹藪のなかに、武将たちの屋敷跡の残骸があちこちに点在している。さらに三角点にむかうと、蒲生氏らの屋敷跡があった。 ”こんなところまで、はるばると応援にきたのか…” 遠い戦国の昔に思いを巡らせ、古城の風音を聞いたのである。 参考文献 「信長公記」 横山高治「信長と伊勢伊賀」 |
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