東海道の昔の話(5) 筆捨山故事 愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/11投稿 |
||
室町時代のある年、初秋のある日。 市ノ瀬集落のはずれに僅かな畑がある。一人の男が畑の端に立ってしきりに目前の鈴鹿川を覗き込み、独り言をつぶやいている。 『これが源氏物語の賢木の巻に出てくる八十瀬川なのか…。 ふーん深い谷底に速い流れと瀬が立っているな。いまは 琴ノ橋などがあるので鈴鹿の山越えや川の渡りに難儀は は少なくなったが、紫式部の生きていたころ、宮人たち が鈴鹿山から八十瀬川を渡るときは、相当な難儀な道だと 思ったんだろうなあ…』 ここから見る鈴鹿川と正面の山は砂岩と花崗岩から出来ている。 この土壌は非常にもろく保水能力に欠ける。そのため八十瀬と形容されるほど多くの浅瀬は、雨が降るとすぐに濁流が氾濫する。 さらに山腹と川岸が崖状のために、道路や橋の建設も思うがままに成らず、旅人たちは衣の袖や裾をまくって、岩から岩へ飛び移って徒渉していた。 『ちょっと親父さん、前の山は何という名前だね。非常に かっこうがいい山だけど。』 呼ばれた年老いた農夫は 『この土地の者は岩根山と呼んでます。ご覧ください山の中 にある奇岩に小さな松の根がへばりついているでしょう。 だから名前は岩の根の山ですよ』 なるほど、ゴツゴツとした大きな岩がいくつも山肌から露出している。 それを包むように形の良い松が生えている。まるで人が手を加えた箱庭の風景である。標高はさして高くないが 、変化に富んだ山の姿は見る人を飽かせない。 『ウーん、これは面白い』 つぶやくと男は 『親父さん、この場所を少し借りるよ。あの山を描いてみたいのでなあ…』 彼は荷物をほどくと、絵の具、絵筆、和紙などを取り出した。そして物も云わず熱心に山の姿を模しはじめた。 この場所は街道筋のもっとも狭まったところにあり、目前の山と下の川が手にとるように見えるので、旅人も腰を下ろして茶を飲んだり食事をとったり、一息入れるところである。通りすがりの旅人たちも、熱心に絵を描いている男に興味を覚え 『ホオーうまいもんや。そっくり綺麗に描けてるやないか』 感想まじりに話しかけるが、男がまったく反応を示さないので黙って去っていく。 何時間か経過した。 空が陰ったかと思うと、急に白い雲が山にかかってきた。 『あれッ』 男が驚いているうちに、つぎにはさっと霧雨が降ってきたではないか。 あわてゝ絵筆をとって荷物の中に放り込むと上から油紙で覆った。しばらくすると雨は小降りになった。男は再び絵の具を取り出した。 そして前の絵を塗り潰して霧雨を写しはじめた。 それが何となく形になりだしたが、もう陽はようやく傾き夕陽が山肌を染めている。さっきまで描いていた初秋の山、霧雨とはまったく違う色の世界である。 男は描きかけの絵を破り捨てた。そしてまた筆をとると物も云わずに描きはじめた。また時間がたった。ようやく絵が仕上がったように見える。そして改めて山を見ると、もう夜の闇が忍び寄り黒々とした山稜の上空には霧や雲はなく、星がちらちら輝きはじめている。 それに気がつくと、男は呆然として筆を持った手を下げた。 『ああ…、この素晴らしい自然。この景色はとうてい自分 の才能では描けるものではない…』 そうつぶやくと、手にした絵筆を思いっきり高く放り投げた。 筆は鈴鹿川の暗い淵にむかって放物線を描いて落ちていった。そしてやがて虚脱したように腰を上げた。 『……、世話になったな…』 ゆっくりと立ち去っていった。その後姿を見た旅人の一人が 『あれは狩野法眼元信さまではないか…』 この話が人々の噂に広がると、誰ともなく岩根山のことを筆捨山と呼ぶようになった。 享保二年(1717)八月 滝沢馬琴 山中に狩野法眼が筆捨山といふあり。…いにしへは画家も いと拙しかりしにや。うつしがたきといふ山にもあらずかし。 すてられて山にもなくかふでつむし もっとも伊勢の地誌「勢陽五鈴遺響」の著者、安岡親毅は、狩野法眼元信がこの地に旅行したことも筆を捨てた史実もなく、 『まったくの虚妄である』 と断じている。しかしこんなよくできた面白い話はざらにない。私は事実として信じることにしている。 参考文献 関町史 馬琴「羈旅漫録」 |
戻る |