東海道の昔の話(50)
明和五年の農民一揆5   愛知厚顔    2003/11/28 投稿
 
【一揆 四日目】
 明和五年(1768)九月十六日、
 午前十時ごろようやく空が晴れた。一揆は広瀬野の真ん中に集まり
  『今日は下大久保の大庄屋大久保彦三郎と若松村
   の大庄屋加藤孫兵衛宅を襲撃しようではないか』
と発言する者があった。ところが強硬派は
  『それよりも広瀬野に仮小屋を建て近村から米麦を徴発
し若松村の味噌醤油を奪って持久作戦としたほうが良い。』
あるいは
  『隣藩領土の農民を煽動して一斉に蜂起したほうがよい』
といろんなこと言う。そのとき河芸郡北若松村の庄屋で佐野孫右衛門という者、一揆の攻撃を回避するために酒四石を贈ってきた。
一揆の衆はその使者に神戸藩の状況を問いただしたところ
  『藩士たちは鉄砲や武器を携え、警備は極めて厳重です』
それを聞いた一揆の衆は
  『若松村に神戸領を通っていけない。これを避けて行くと、
   かなり遠廻りになってしまう。行くのは止めよう』
と決定した。一説にはこの孫右衛門の使者が酒を運搬して神戸城を通過するとき、神戸藩士が
  『どこに行くのだ』
と尋問したとき使者は
  『広瀬野の一揆に酒を輸送する途中です』
と正直に答えた。その藩士は
  『もし一揆の連中が若松村に向かう途中、神戸藩領を通過
   したときは、鉄砲で討ち取れと藩から言われている。汝は
   このことを一揆の連中によく伝えるべし。』
と自分の判断で言ったそうである。

 亀山藩の役人で農民に人気があったのは、石川伊織、平岩安太夫、西村隆八、生田理左衛門など。これに反して農民の恨みの的になったのは、大久保六太夫、杉田藤左衛門、奥村武左衛門、西村直八、猪野三郎左衛門らである。
 この恨みを買った人々も決して汚職役人ではなく、新田検地の主旨を農民に理解させ徹底させたい一心、熱心に職務に取り組んだことが裏目となってしまった。
 また一揆を煽動した首謀者の真弓長右衛門も、農民救済を叫んで標榜したが、はたして自分の利害抜きで決起したものか…、
いまとなっては定かではない。彼の先祖は有名な伊船村の竜ケ池を造成した農業振興の功労者である。

 いよいよ亀山藩の鎮圧作戦も決断が迫られる。
亀山城主の後見、石川総徳は大目付の近藤伊太夫と馬場彦太夫を呼び、
  『充分に情理を尽して説得に努めよ。刀、弓矢、
   銃の類は使用してはならぬ』
と言い含めた。そして鉄砲隊百五十人を引きつれて広瀬野に向かわせた。
 二人は広瀬野に近ずくと鉄砲隊を途中に待機させ、少数の従者だけ伴い一揆の中に入った。そして
  『このたびの争乱では津の藤堂様、桑名の松平様、神戸の
   本多様、菰野の土方様から兵力を貸すと申し出があった。
   明日にもこれら諸藩の援軍がきて汝らを撃破するだろう。
   今日まで我が藩は一本の矢も一発の鉄砲も撃たなかった
   のは、領内農民の生命こそ大切なりと信じるためである。
   今日この場で我らに敵対するならば、もはやこれまでと
   弓銃を用いるつもりである。』
  
  『また近隣諸藩の兵力を借りて汝らを討伐すれば、我が
   主君は移封を命じられて、汝らの願いも消滅し、
   八十三ケ村は荒野になってしまい、農民の生命も安全で
   はない。今日の我らの話は嘘偽りではない。汝ら皆と
   よく相談して解散することを勧める。
   しばらく時間を与えるのでよく塾考せられよ』
 それを聞いた一揆は協議のため密集して相談にはいった。
しかも皆はもはや疲労困憊の極みにあった。この間に鉄砲隊はひそかに左右の松林の中に展開し、万一を想定して装弾し威嚇の準備はまったく整った。

 一揆の連中ももはや疲れ果て、過半数の者は文句なく解散することに決めたのである。そこで頭取は
  『大目付様の面前で解散を宣言します。』
と申し出た。大目付は
  『汝らが解散するならば、願書の通り代官、大庄屋、
   目付庄屋などを更迭すると約束する』
一揆の頭取は
  『まことに恐れ入ります。されば解散することを誓います』
と宣言した。
  『よく承知してくれた。それならば我らは安心
   して城に帰ることができる。』
そこで従者に命じ角笛を一声二声吹かせると、それに応じて左右の松林の中から隠れたいた鉄砲隊が出てきて整列した。
 そして整然と立ち去っていった。
 一揆の連中はこの様子をみて恐怖の色をみせた。ところが一揆の中の強硬派の者は
  『あの大目付二人の言うことは策略だ。信用できない』
  『残りの役人を攻撃し、恨みを晴らしてから解散しよう』
と叫ぶ。これに対し軟派の連中は反対する
  『それは自殺行為に等しい暴論だ。この広瀬野に接近
   した神戸藩の領地、高宮、汲川原村はもう鉄砲隊が出て
   いる。これ以上暴発したら我らの運命はもはや死あるのみ、
   そんなことはできない。』

強硬派はなおも
  『若松村からの使者の情報は神戸藩の策略だ。
   我らに恐怖心を起こさせ士気を萎縮させるため、誇大に
   報告させたに違いない。これから若松村に進撃するぞ!』
と叫んで法螺貝を吹いた。軟派の連中はそれを阻止しようと
  『もう止めんか!』
お互いに組みつき大乱闘になってしまった。そのとき一揆の放った密偵が帰ってきて言うには、
  『いま立ち去った大目付と鉄砲隊は、中富田村から西
   に配置されている。また騎馬隊も巡視し要所要所に
   同心も警備している。亀山藩と神戸藩は互いに連絡
   をとり、我らの暴動を詳細に把握している模様です。』
これを聞いて強硬派の連中は驚き
  『我らはもはや周囲を半ば包囲されたようだ。
   もう解散するしかないな。』
とうとう全員が解散することに決したのである。このとき更につぎの申し合わせを議決した。
  一、一揆の頭取で死罪に処せられたときは、
    石碑を広瀬野に建立する。
  二、八十三ケ村の代表は毎年墓前に参集すること。
さらに和歌一首をよみあげ、松の枝に懸けた。
     四の海引くや八嶋も納まりて
           再び帰るおのが家家

 そして声もなく粛々と自分の村に引き上げていった。
二百四十年を経過したいま、この申し合わせはどうなっているのだろうか…。
    
【一揆の終焉】
 明和五年〔1768〕九月十七日
 あれほど人で溢れていた広瀬野の野原も、いまやまったく人影はなく静寂を取り戻した。
 亀山藩は津、久居、桑名、神戸、菰野の諸藩に報告と感謝の使を派遣した。また大目付の馬場彦太夫を江戸に向かわせた。
彼は廿一日に江戸での報告を完了している。
 十一月十一日。
 一揆勢との約束に従い亀山藩はつぎの処分を行った。
 大庄屋  野村伊藤兵左衛門、下大久保村大久保彦三郎、
      若松村加藤孫兵衛、国府村打田庄蔵、
      野尻村打田権四郎の五人を罷免。
 目付庄屋 羽若村服部太郎右衛門、野村伊藤勘兵衛を罷免。
 帯刀庄屋 八野村伊東才兵衛、阿野田村豊田儀右衛門、
      国府村森覚左衛門、原尾村源吾、原村喜兵衛、
      津賀村久太郎の六名を罷免。  
 代官   奥村武左衛門を解任
 奉行   杉田藤左衛門を解任
 郡代   大久保六太夫を解任
 代官   猪野三郎左衛門、西村直八を解任
そし農民に人気のある生田理左衛門、新彦助を作事奉行に任命した。

 明和六年六月十三日黎明、一揆の首魁として伊船村真弓長右衛門、辺法寺村喜八、小岐須村嘉兵衛を鈴鹿川阿野田碩にて斬罪に処した。
 また国府村打田仁左衛門は獄中で病死、大岡寺村の江戸屋某も斬に処せられた。
 真弓長右衛門の法名は 〔誓了院光岳常心居士〕である。
 このときの代官奉行たちの墓は亀山市御幸町本久寺にある。
彼らはまったくの無実の罪で解任されたのだが、その辛い思いを忘れないため、墓碑は広瀬野に向けて立てられたが、明治の始めに鎮魂の法要をし、現在の場所に移されたという。


 参考文献   「明和太平記」「亀山騒動実録」  
                          【終り】     
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