東海道の昔の話(55)
 冥府対談、亀山敵討2   愛知厚顔    2003/12/15 投稿
  近松  『二人の兄上はすぐ仇討に出発されたんですか?』
源蔵  『上の兄は三之丞と云い十八才でしたが、下の兄の
     彦七と共にすぐ仇討に出ました。』
三之丞 『私たちの話題なので出席させてください。
     長男の三之丞ですどうぞよろしく。私と彦七の二人
     はすぐに敵を探して諸国を尋ねまわりました。しか
     しまったく消息がつかめません』
近松  『あの夜、赤堀さんは大阪城代下屋敷の角、辻番所の
     近くに落し文をしましたね。』
赤松  『そう。再婚話のゴタゴタで石井先生が分別を失ない、
     先方に申し訳ないのでやむなく討ち取った、と書き
     ました。』
近松  『世間から非難されるのを逃れるための工作ですね』
赤松  『そのとおりです。まったく卑怯でした。しかしこれ
     を世間の人は信じたようです。』
近松  『三之丞さんたちは、敵をさんざん探したが見付らな
     い。』
三之丞 『はい。いくら探し回っても消息が不明です。
     そこで敵をおびき出す計略を立てました。それで
     養父、赤堀遊閑さんを殺害したのです。』

近松  『延宝元年(1673)十二月八日のことですね。』
彦七  『二男の石井彦七です…どうぞよろしく。私は生まれ
     つき病弱で神経質な性格です。敵を求めて空しく月
     日が経っていくのにあせってました。そこで遊閑さ
     んを殺害すれば、敵も姿を現すだろうと思ったので
     す。』
三之丞 『私は反対でした。遊閑さんはまったく仇討ちに関係
     がなく、この人を討つ大義名分がありません。』
彦七  『私は兄がやらぬなら自分一人でもやる、といってい
     きまきました。やむなく兄も遊閑さんの殺害に同意
     しました。そして大津で鍼医をしている遊閑邸の動
     静を探りはじめたのです。』
赤堀  『私の方は赤堀の親戚縁者が一致して私を援助してく
     れました。石井側が養父も同じ憎い仇と狙っても
     不思議ではありません。私は父に厳重な警戒をする
     よう云いつけてました。』
三之丞 『まったく警戒は厳重でした。しかたなく下僕の孫助
     を病人に仕立てて往診の依頼をしたんです。
     それにまんまと遊閑さんは引っかかったのでし
     た。』
彦七  『そして遊閑さんを討ちとりました。しかしこれは
     大失敗でした。』

近松  『石井側は京都、伏見、大津、大阪のあちこちに札を
     立て、
     「其の方にも親の仇になるだろうから出てきて
      勝負を行え、どこに隠れていても探し出して
      首を刎ねてやるぞ」
     と書いたのですね?』
三之丞 『そう。これで私たちも赤堀さんの父の仇敵になり、
     大義名分を与えてしましました。これはどうみても
     失敗でした。』
近松  『この高札を見て赤堀側はどうしたのですか』
赤堀  『これを見て私は美濃大垣、大津の町の辻に高札で応
     じました。
      「石井宇右衛門は、大阪で我等に不届きが
       あったのは隠れない事実である。堪忍なり
       難く宇右衛門を切り殺したが、今回は養父
       の赤堀遊閑を病人が出たと偽わり、大津八丁
       にて大勢で殺害した。其の方らは親の仇敵で
       あり、どこにいても探しだして首を刎ねるか
       ら覚悟しろ」
     石井さんとそっくり、同じ文言ですよ。』
近松  『石井側の親戚縁者の協力はあったのですか』
三之丞 『私の伯母の婿、犬飼瀬兵衛が美濃国室原村
     (岐阜県関ヶ原町)におりましたので、そこを拠点
     にして敵を探し歩きました。犬飼一族はもちろん、
     各地の親戚から物心両面から応援を貰いました。』
赤堀  『それを知って私は代官所へ口上書を提出して対抗し
     ました。
      「室原村の犬飼瀬兵衛と言う者は私の親の敵、
       石井三之丞と彦七を引き取り、一家や御百姓
       まで大勢引き入れています。私のほうで押し
       込んで仇討ちをすると、御百姓にも怪我人
       が出る心配がありますので、あらかじめ御届
       けします。」
     こんな具合です。』

近松  『これで赤堀側、石井側の両方とも仇討ちの大義名分
     が出来たわけですが、この高札の宣伝合戦は赤堀側
     が有利であり、世間の人々は赤堀側に同情が集まっ
     たようですね。
     さて、上の御兄弟が出立されて八年が経過しました
     が、犬飼宅での毎日はどんな様子でしたか?』
三之丞 『八年は長いようであっという間でした。
     室原村の犬飼宅を根拠にして京都、大阪など敵を探
     し回ったのですが、長い浪人生活で経済的な援助を
     広島の親戚に求めて往復しました。だんだんと犬飼
     一家とも不和になっていきました。』
彦七  『私は病弱ですぐカッとなる性質です。この生活に
     ストレスが鬱積しっぱなしでした。兄や犬飼ともす
     ぐ口論になり、ついには
       「俺一人でも赤堀を討ち取ってやる」
     と言って室原村を飛び出したんです。』
近松  『そんなときの返り討ちですね。』
三之丞 『八年の長さに油断していたのですね。
     天和元年(1681)の正月廿八日でした。私が風呂から
     出て戸口までいったとき、隠れていた赤堀さんに斬
     りつけられ死亡しました。廿六才でした』
赤堀  『私は無言で二の太刀で三之丞さんの右手を切り、倒
     れかかった太股を突き刺しました。これが致命傷と
     なったようです。』
近松  『そのまま逃げたわけですか』
赤堀  『いや、逃げるとき犬飼さんの甥の茂七さんに追われ
     たので、彼も切りました。そしてまた高札で
      「我は一人で犬飼方に討ち入り、養父の仇討ち
       本懐をとげた」
     と公表したのです。』

近松  『この仇討ちで世間では赤堀さんを武士の鏡とか、
     一国一城の主になるべき豪の者と誉めました。
     ところで室原村(関ヶ原町)の福源寺という古い禅
     寺の境内に柿の古木がありますが、その幹に髪の毛
     そっくりの毛が生えているのを御存知ですか?
     村の人は三之丞さんの恨みの髪の毛だと言い伝えて
     いますよ。』
三之丞 『それはないでしょう。もう三百年も経っているんで
     すよ。とっくに恨みは消えました。それはたんなる
     寄生植物ですよ』
彦七  『私は犬飼家と不和になって飛びだし、そのまま各地
     を放浪してました。もう仇討のことなど早く忘れた
     い…、憑かれたように賭博や酒、女の世界に溺れて
     いました。そんなとき兄の返り討ちを知りました。』
近松  『そこで再び仇討の志を新たにしたんですね。』
彦七  『はい、石井側は弟二人は幼少なので、もう私一人が
     やるしかない。それで親戚の援助を求めて四国の
     伊予松山にむかいました。しかし途中の瀬戸内海で
     嵐のため遭難死してしまいました。』



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