東海道の昔の話(57)
 冥府対談、亀山敵討4   愛知厚顔    2003/12/15 投稿
  近松  『石井家の下僕、孫助さんについてはあまり知られて
     ませんが、どんな人でしたか?』
源蔵  『彼はまったく忠義の人です。兄三之丞たちの供をし
     て敵討の旅の間、広島の石井一族との連絡係。そし
     て三之丞が返り討ちになったとき、悲しみのあまり
     自害しようとして、犬飼に止められてます。兄の
     遺体を広島まで運んだのも彼です。彼の顔は敵側も
     知っているので、亀山ではかなり苦労して動静を探
     ったようです。敵討に出立以来廿数年もの間、艱難
     辛苦に耐えた生活に身体を病み、私たちが広島で
     療養を勧めても
       「初志貫徹するまで頑張る」
     と云い、なかなか承知しません。私たちの強い説得
     でようやく広島へ戻りましたが、元禄十年に病死し
     ました。この人の努力がなければ、本望達成はまだ
     先のことだったでしょうね。』

近松  『それからのお二人はどうされたんですか?』
源蔵  『亀山の武家社会の様子はなかなか判りません。なん
     とかこれに取り入る伝手を求めて腐心しました。』
半蔵  『この願いがかない、私が亀山藩の平井才右衛門様に
     奉公することができました。元禄九年(1697)でし
     た。』
源蔵  『私はさっそく江戸に下って半蔵にあい、これで
     敵討のチャンスが到来したと喜びましたが、なかな
     か機会が巡ってきません。江戸の半蔵と亀山の私は
     四年も往復しました。しかし私も夏目八兵衛さまに
     奉公することが出来、これで兄弟そろって武家社会
     に入ったのでした。』
半蔵  『私のほうはその後、辻さまに奉公替えして江戸に下
     りました。その江戸では辻さまの紹介で下村一角さ
     まに奉公することになりました。この年、
      元禄十一年には江戸町奉行へ敵討の願書を連名で
     提出し免許を得ました。そして主人に従って亀山に
     上りました。亀山では一角さまの父、二百五十石の
     下村孫左衛門さまに非常に可愛いがられました。』
近松  『半蔵さんの誠実な奉公ぶりが、下村家の人に認めら
     れたんですね。』
半蔵  『はい。一生懸命に奉公に励みました。下村さまから
     大小の刀、羽織袴の上下を賜り、名前も
     在沢伴右衛門と名乗り、若党に取り立てられまし
     た。』

近松  『身分も下僕から侍になったわけですが、これで敵の
     動静をさぐるのにも都合がよくなった。また藩主
     板倉候が備中に国替えとなったとき、下村さまは
     亀山に残留され、現在も御子孫は本町で薬局業を営
     まれていると聞いてます。』
源蔵  『兄弟が二人とも亀山で揃いました。私は
     鈴木岡右衛門さま方で森平と名を変えて奉公変えし
     てましたが、これで時間の許すかぎり二人は会い、
     情報交換ができました。』
赤堀  『ある日、半蔵さんの在沢伴右衛門に
     「お手前の友人はどういう人だ。私の顔を
      ジロジロ覗きこんだが…」
     と聞いたことがありましたね。』
源蔵  『私が赤堀さんに近ずいてジロジロ顔を見たときですね。』
半蔵  『あのときは私たちの身元がバレたかと、驚きましたよ。』
近松  『そして、いよいよ長年の苦労が実るときがやってくる。』
半蔵  『じつは決行の数日前、主人から江戸に下るお供を申
     し渡されたんですが、困り果て「体調が悪い」と
     ウソをつきました。ところが主人は
      「それなら薬の調合ができる友人が城内にいる
       ので貰いにいけ」
     と云われ、城内に出かけたところ、ぱったりと
     水之助さんに出会ったんです。だが一人では仕損じ
     る恐れがあり、止む無くこの機会を見送りました。
     しかし誠実な主人を騙したのは恥ずかしく思ってま
     す。』石井兄弟仇討碑





源蔵  『そして仇討の場所、日時を詳細に取り決めました。
     元禄十四年(1701)五月九日、水之助さんが宿直勤務
     を終え明け番で下城するとき石坂門外です。
     門の中は城の敷地内になり、血で汚すのを避けたか
     ったのです。』 
近松  『石坂門は大きな石の板が敷いてある坂道、東側は堀
     の土堤に植え込まれた松並木があり、西側は空屋敷
     と家老の板倉杢衛右衛門さまの屋敷ですね。』
源蔵  『私はその板倉さまの屋敷の角に隠れてました。』
半蔵  『私は草履の鼻緒が切れたのを修理するふりをし、
     水之助さんのくるのを待ちました。』
赤堀  『亀山では廿年も無事お勤めを果たしていましたので、
     私はもう敵討持ちの身をいつしか忘れ油断してまし
     た。供を一人連れて歩いてましたが、前から源蔵さ
     ん後ろから半蔵さん、お二人が近ずいても、まった
     く気にしてなかったんです。』
半蔵  『通りすぎたとき手にした草履を投げ、振り向きざま
     に
      「石井宇右衛門が倅どもなり、
       父と兄の仇覚えたか!」
     と真っ向から右の腕を斬りつけました。』
赤堀  『とっさのことで刀を抜くひまがありません。止むな
     く左手で刀を抜きかけたんですが、駆けつけた源蔵
     さんにその左手も斬られ、あと七ケ所ほど斬られた
     うえ止めを刺されました。』

近松  『そしてお二人は書置きを残された。』
源蔵  『仇討ちの動機、これまでの経緯などを書き記し、
     亀山藩板倉周防守様の御家老中あてにし、水之助さ
     んの衣に挟さんで急いで立ち去りました。』
近松  『それにしても水之助さんのお供や城番役人、この人
     たちは斬り合いを目撃していたはずですが…』
源蔵  『とっさの出来事です。たぶん驚いて何もできなかっ
     たのでしょう。』
赤堀  『私の下僕は壁の陰に隠れていたようです。』
近松  『お二人に追っ手はかからなかったのですか?』
源蔵  『私たちは青木門から西町に出て、さらに京口門を経
     て落針村の能古茶屋まで逃げました。そこで少し
     休憩し服装を整えて改めて立ち去りました。』
半蔵  『亀山藩では大目付さまが書置きを読み、私たちの
     仇討の内容を知ると、急ぎ同心に召集をかけたので
     すが、わざと数回にわたって点検を行って時間を
     空費させ、私たちが遠くへ立ち去ったころを見計ら
     って出動させたと聞いてます。』
源蔵  『いやそれは信じられない話です。本当は御家老の
     板倉さまが追っ手を出すのを止められたようです。
     私たち兄弟を討っても藩の名誉にもならず、また藩
     に死傷者でも出たら、まったく無益なことになりま
     すからね。』
近松  『さて討たれた水之助さんの御墓は亀山にあります
     が…』
赤堀  『亀山市野村町の妙亀山照光寺にあります。
     このお寺は板倉重常候の正室、筆子さまが復興し
     寺号を照光寺と改められたそうです。私の墓は
           元禄十四年辛巳歳
          還本心性院道源日母霊
           五月九日
     と戒名が刻まれてますが、俗名も建立者の名もあり
     ません。おそらく私の親戚の青木か親しい友人の誰
     かが埋葬してくれたのでしょう。戒名には昔の名前
     から源の一字だけが入っています。
     還本心性院とは罪障を消滅して仏に還える、とでも
     いうことでしょうか…。人は粗末な墓と云いますが
     私は充分に満足しています。』
仁左衛門の悪役ぶり
近松  『石井兄弟による廿九年目の仇討は「元禄曽我」と   か武士の鑑として世間の賞賛を浴びました。さっそく読み本や歌舞伎、浄瑠璃も登場してきましたね。
      私も浄瑠璃〔道中亀山噺〕として台本を書かせて
     もらいました。ほかにも鶴屋南北の〔霊験亀山鉾〕、
     そして〔花菖蒲文録曽我〕、浄瑠璃〔道中評判記〕
     〔往昔模様亀山染〕〔敵討優曇華亀山〕 浮世草子
     〔元禄曽我物語〕、歌舞伎では〔勢州亀山の仇討〕
     〔花鱗亀山通〕〔敵討千手護助剣〕。実録記では
     〔石井明道士〕など、じつに多彩ですね。
     また近年では長谷川伸の小説〔二十九年目の敵討〕、
     菊池寛〔敵討二重奏〕などが有名です。』
源蔵  『これらは私の〔石井実記〕や、亀山藩の加藤重昌さ
     んが明和八年(1772)八十二才のときに残した記録が
     元になっているようです。ほかにも朝日文左衛門
     〔鸚鵡篭中記〕、太田南畝の〔一話一言〕にも
     人物の名前など少し違いがありますが、大筋では
     誤りなく書かれています。』
近松  『水之助さんの御墓には、いまも線香やお花が絶えま
     せんね。』
赤堀  『はい、やはり亀山敵討があまりにも有名になったせ
     いでしょう。ときどきテレビ、映画、歌舞伎関係の
     方にも御参りを頂いてます。仁左衛門の赤堀水之助墓参
     平成十四年には片岡仁左衛門さんがこられました。何でも国立劇場で鶴屋南北さんの〔霊験亀山鉾〕を昭和七年以来、約七十年ぶりに上演するとのこと、また初演からは百八十年ぶりで、仁左衛門さんは私の悪役だとのことでした。』

近松  『仁左衛門さんの藤田水右衛門(赤堀水之助)の悪役ぶりは、いままでにないみずみずしい色気にあふれ、その憎らしさと重なり、非常に評判でしたね。』
赤堀  『芝居や歌舞伎では私を徹底した悪役にしないと、舞台が盛り上がりません。仕方がないのでしょうが私の実像は自分で云うのもおかしいほど温厚実直ですよ。それでなきゃ二十年以上も亀山藩士として御
     奉公はできませんよ。』
近松  『ほんとうですね。これは半年後に起こった赤穂浪士
     の仇討でも同じです。吉良様を徹底した悪役に仕立
     てますが、三河吉良では名君でした。平成の時代で
     も吉良の町では忠臣蔵を話題にできません。
     ところで、ご兄弟のその後はどうされました?』
源蔵  『私は父の旧主の青山家に帰参がかない、丹波亀岡藩
     で知行二百五十石を頂戴することになりました。』
半蔵  『私のほうは新規に御召し抱えとなり、知行は
     百五十石をたまわりました。また江戸町奉行の
     保田越前守さまには大変なご支援を頂きました。
     仇討が成功した後も私たちの仕官先を探して奔走
     されますたが、そのときは青山家に仕官がきまっ
     ていました。』
近松  『お二人の御墓はどこにありますか?』
源蔵  『私は享保六年七月二十五日、五十四才まで生きまし
     た。仇討が廿五才のときですから、三十年近くを
     青山家に仕えました。墓は京都府亀岡市の宗堅寺で
     す。法名は
         大仙院明道智白居士
     です。弟は京都府何鹿郡中上林にあります。』

近松  『本日は長い間、大変貴重なお話をたまわり、まこと
     にありがとうございました。恩讐を越えて冥府から
     わざわざご出席を頂いた石井、赤堀ご御両家の皆様
     に改めて感謝を申しあげます。馴れない司会でした
     が、これで対談を終らせていただきます。』
厚顔の口上
    『本日は大変ありがとうとざいました。なにぶんにも
     三百年という時間が経っており、関係する人物名や
     場所、年月日などに記憶違いがあるかも知れません
     が、その点はどうかご容赦をお願いします。
      さっそくこの対談をまとめ〔きらめき亀山21〕
     に投稿させて頂くことにしたいと思います。』
    


参考文献  原喜一〔赤堀水之助という男〕
      石井源蔵〔石井実記〕 太田南畝〔一話一言〕
      長谷川伸〔二十九年目の敵討〕 

       (前に戻る)                     
 
戻る