東海道の昔の話(60) 治水の功労者,生田理左衛門 愛知厚顔 2004/1/6 投稿 |
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安永(1775)年間の以前は鈴鹿郡の大動脈、鈴鹿川は野尻村(亀山市)の東部で大きく曲がっていて、旧東海道の嫁落し(ヨメオトシ)と呼ばれるすぐ下に至ると、こんどは東南方に折れていた。そして野村の忍山神社の西方あたりにくると、水の勢いも緩み川の中央に大きな砂州ができていた。人々は これをみて 『あれは川中島の船ケ塚だ』 と呼んでいた。武田と上杉の合戦で有名な信州の千曲川中流の地形に例えたのである。 この船ケ塚のすぐ東では毎年大量の土砂を堆積するうえ、すぐ北側には逆に深い淵ができてしまう。上流からの水の勢いは次第に川床を高めるため伏流になり、それが付近の水田に湧き水となって噴出してくる。これでは田圃が荒廃し稲作が減収するのは当然だった。 また山下村あたりでは北側に大沼澤が生まれてしまい、水鳥が多数に繁殖して格好な猟場になっていた。 川は忍山神社の西方から南に向きを変え、さらに東に屈折していくのだが、秋の洪水ではしばしば南側の釜ケ淵と称される堤防を決壊し、和賀村の農民は幾度も大きな被害にあっていた。この和賀はいまは美田になっているが、古和賀と呼ばれる場所である。 この見取図は上が南 このたび重なる水害のため和賀村の人々は 『もうこんな土地では生活できない』 と見切りをつけ、はるかな南の丘に移住したり、あるいは一部は破産して遠く一家離散の運命をたどる悲惨さであった。 このため 『川の南方の堤防を嵩上げしてほしい』 和賀村の農民が藩にしばしば陳情したが、それを知った反対側の芝原村の農民が 『むこうの堤防を嵩上げすると、私たちの村 が浸水するので止めてほしい』 と逆陳情する始末。たしかに南側の堤防を嵩上げすると和賀の村は水害から救われるが、こんどは水の勢いは反転して芝原の集落を浸してしまう。さらに和賀の浸水だけにとどまらず、この余勢は阿野田の集落の菅原神社(天神)の西の方まで被害を及ぼしていた。 『これは鈴鹿川の南側の堤防を 二重にすればよいだろう』 藩は土木学者の意見にしたがって、乏しい藩の財政の中から莫大な予算を計上し、大きく長い堤防を二重に築き、さらに深い避水溝を設けて浸水を誘導するようにした。 しかしこれも完成の翌年の大水ではまったく効果がなかったのである。藩は困ってしまった。 そこで亀山藩槍術指南役をしていた生田理左衛門に、この治水の大役を仰せつかったのである。 彼は明和五年(1768)に起こった農民一揆の当時、藩の弓術師範をしていたが、日ごろから農民に理解を示していたので、臨時に江ケ室門警備を命じられた。このとき一揆の農民たちは門前に立つ理左衛門の姿を見て一礼して通過したという。 彼が作事奉行に任命されたのは明和五年十二月七日、農民一揆が終息した直後で五十六才になっていた。 彼はまずこの惨憺たる光景の歴史を自分自身で徹底的に調査した。そして現地に幾度となく足を運び村人に率直な意見を聞いて回った。 『どのような工法が一番効果があると思うか?』 この問いに川の両側の人々は 『そりゃ決まってますよ。流れがまっすぐ なら水害は起こりません』 理左衛門ももっともだと思った。、 「これが最後の最良の工法だろう…。だが問題は 資金だ。これからは我れ一人で藩重役との戦い が待っている」 彼はウソのように静かに流れている鈴鹿川を見ながらつぶやいた。 彼は藩内の重役たちを必死に説得するとともに、領内の豪商たちにも協力を依頼していった。そして莫大な工事費を藩の蓄財金を当てたり、藩債を発行して豪商から借り入れたりして工面し、工事のめどを立てていった。 そして安永年間(1775)に至って工事に着工することができた。幾多の難工事の末、いくつも曲がりくねった鈴鹿川の流れを直流にすることに成功した。これによって山下村の沼澤は素晴らしい美田となり、野尻村の福良子の湧き水は停ってしまった。そして廃川の跡はいずれも美田に変貌したのである。もちろんこの後は和賀、阿野田の水害はまったく起こらなくなった。 さらに彼は野尻村字道野に溜池を掘削し、野村字高飛の南にある乾燥した畑を水田に変えている。この河川改修の成功は生田理左衛門ひとりの力による功績ではないが、彼が不屈のねばりで工事を成功に導いたことは間違いない。のちの農民たちは彼を 『亀山の熊沢蕃山だ』 と呼んでいる。 さらに彼は椋川の改修にとり組んだ。この川は亀山藩領鈴鹿郡河合村の西北方を貫通して流れていたが、しばしば氾濫をくりかえしていた。明和八年七月の豪雨では安楽川と椋川が大洪水となり、下流域に甚大な被害を及ぼしている。 村人たちは 『なんとかしてこの暴れ川を静めてください』 と生田に陳情した。彼はさっそくこの椋川の直流化工事をはかって完成させた。いま 「川合の新川」 と呼ばれているのはこれである。これは旧東海道街道に架かる堪太夫橋から川の流れを見れば、一見してすぐ人工によるものと判別できる。 安永九年(1780)、藩は生田理左衛門の長年にわたる治水の功績を賞し、禄高七十石を加えて旧禄と合わせて二百石を与えた。天明元年には作事奉行を辞職し引退したが、彼に感謝する農民たちはしばしば隠棲居に彼を訪問し、過ぎし日の労に感謝していたと言う。 天明五年(1785)七十三才で没した。 墓石は本亀山市御幸町の本久寺にある。 |
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