東海道の昔の話(62)
  桑名義士、森陳明      愛知厚顔    2004/1/14 投稿
 
 桑名は東海道を伊勢路、京大阪へたどる重要な要害の地にあたる。徳川幕府はこの地を股肱の松平氏に施政をまかせていたほどである。幕末には松平定敬が藩主の座についていた。
 彼は高須藩主、松平義建の十男として誕生したが、安政六年(1859)に桑名藩松平家の養子となり十一月に桑名藩十一万石の当主になった。
 ところが彼の兄、松平容保が会津藩主の養子となり、元治元年(1864)には京都守護職に任じられた。それと同じくして桑名藩主の定敬も京都所司代に任じられ、兄とともに京都の治安維持にあたった。
 このことが桑名藩の悲劇の始まりとなる。一ヶ月も経たない七月には禁門の変が勃発し、長州藩兵が会津藩が守っていた蛤御門を攻撃する。このとき桑名と薩摩藩は会津藩に味方して長州藩を退けた。

 しかし慶応三年(1867)になると形勢は一挙に逆転し、幕府は大政を朝廷に奉還してしまった。松平定敬は京都所司代を罷免され、彼に従った桑名藩士を伴って、徳川慶喜とともに大阪城に入る。翌慶応四年正月に鳥羽伏見で戦いが起こると、徳川方の幕臣たちと共に戦いに参加する。
 この様子は正月八日に桑名城に伝えられた。

〔正月三日朝、午前十時ごろ京都の伏見え薩摩壱番組が出動し、
 これを追って我が藩も繰り出した。午後四時ごろ関東方より
 伏見薩摩 屋敷へ砲撃開始、桑名先陣一手に戦うが桑名会津
 とも大敗した。このとき桑名藩家老が捕虜になった。関東方
 の死者三百余人。五日に至り関東方は朝敵となった。
 征夷大将軍仁和寺宮、鎮撫将軍中 山前大納言殿、鎮征府
 将軍西園寺殿である。〕

 薩摩長州を主力とする倒幕軍に桑名藩が大敗を喫した。
そのうえ桑名は賊軍になってしまった。さらに藩主定敬は徳川慶喜に同行して江戸に去ろうとしている。これを知った桑名城内は驚いてしまった。
 徹底抗戦を主張する派と官軍に恭順する派が真っ向から対立する。総裁の役にあった家老、酒井孫八郎は
  『これ以上議論しても結論は出そうもない。
   神前で御神籤を引いてその結果に従おう』
そして御神籤の結果は
  『幕府側について戦う』
というものだった。しかし藩士の一部には
  『先代の遺児の萬之助君を擁立し、朝廷に
   謝罪恭順するべきだ』
と強硬に主張するものがいた。そこで激論の末にこんどは恭順と決したのである。また町中に布告し住民一同も恭順に服するよう努めたのである。
 
 ところが藩主の後を追って江戸に入った桑名藩士が多数いた。
彼らは鳥羽伏見で戦って敗れた苦渋の思いが残る。戦の経験がない桑名地元の藩士が恭順を表明したことにも反発、
「脱籍徳川家臣同盟」を結成して徹底した抗戦を主張する。
同じ藩士が真っ二つに別れてしまった。 抗戦派が布告した文書には
  『桑名や会津藩士をはじめ、徳川家臣たちは冤罪を薩摩
   や長州に負わされたものだ。朝廷にそむく意志はなく、
   もっぱら邪を除くため大義名分のために戦うのである』
とある。

 五月十四日、桑名藩目付の森陳明と立見鑑三郎がひそかに亀山藩江戸藩邸を訪問した。このとき留守居役の松井祐助が応対した。
森たちは
  『このたび我われ徳川家臣団で同盟を結成しました。
   貴藩もぜひ加わってください。ともに薩長の賊を
   討ちましょう。そして朝廷と将軍の安定した世の中を
   作ろうではありませんか』
と熱心に持ちかけた。しかし松井は
  『すでに朝廷から布告が発せらています。我れわれは同意
   することは絶対に許されません』
と断わった。これを隣室にいた大小姓の佐本芋四郎光輝が聞き
  『私は森さんの行動が正しいと思います。私の参加
   を認めてください』
と、松井祐助に懇願した。しかし
  『佐本君、すでに朝廷から布告が出ており、東軍は賊に
   なっている。この際はぜひ自重してほしい。
   もし藩の中で森の一派に賛同する動きがあれば、主君
   石川成之公にも類が及ぶ恐れがある』
熱心に説得したので佐本も参加をあきらめた。しかし後で判明したところでは亀山藩邸から二名の脱走者が参加していた。
 森陳明は亀山藩を訪問した翌日、山本某と多田某の二人の亀山脱藩者を伴い、上野の彰義隊に参加した。しかしこの戦いに敗れると榎本武揚の艦隊で函館に逃れた。そこでも激しい戦いを繰り広げていった。

 一方、やがて桑名の地元は彦根、大村、備前、佐土原藩を先頭に、肥後、因州、膳所、水口、亀山藩の諸藩連合官軍を迎えた。
 正月二十八日には桑名城が開城され、三発の大砲が放たれた。
さらに四日市や員弁の近在にも官軍が進駐していった。
 官軍は治安の回復につとめ桑名の人々を安心させた。桑名城は尾張藩が城の管理を任された。松平萬之助(12才)と家臣団そして江戸から戻った恭順派の十六名が、粛々として四日市河原町法泉寺に入った。路傍の人たちは幼い萬之助の駕籠を見て涙を流したという。
 法泉寺では亀山藩軍事方、柴田理介が桑名藩と会談したが、家老の
酒井孫八郎は
  『国元の諸士と江戸からの敗走帰国者とは、
   分離しないで収容してください』
利介はこれを上司の大村藩、渡辺清左衛門に相談し許可した。
夕刻、亀山藩の名川力輔と柴田理介は萬之助ほかを伴い、官軍の本営がある四日市中町通八幡町の信光寺に出頭した。ところが門内に入ると官軍の熊本藩の責任者が大声で
  『朝敵、萬之助すわれ!』
と叱咤した。萬之助はわずか十二才の子供なので、作法を知らなかったのだ。家老の酒井孫八郎は
  『失礼しました』
と謝し、補佐して玄関式台に上がり、他の者は玄関前の白州に座った。
鎮撫使少将の橋本実梁、侍従の柳原前光が出て
  『定敬は反逆顕然であり無道至極、いまさら言うまでも
   ないが、嘆願の趣きを汲みとることにする』
と書面を付与した。それには
  「桑名城を掃除し朝廷に差出すこと。帯刀の者は残らず
   寺院に立ち退き恭順をはかること」
とあった。これによって萬之助ほか降伏者は亀山藩の手で武装解除されたのである。そして萬之助の身柄は津藩と尾張藩が預かることになり官軍はさらに東征に進軍していった。

 徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、大阪天保山港から船で江戸に逃げ
帰ったとき、松平容保、松平定敬の兄弟藩主は、慶喜に従って江戸に去った。
 このあと三月になると定敬はさらに船で函館廻りで越後柏崎に入る。
この地は桑名藩領の飛び地だったことによる。しかしここも官軍が迫ってきたので会津に走り兄を頼った。八月には会津城下がはげしい戦場になると米沢に脱出する。だが米沢もほどなく官軍に降伏すると福島、仙台を経て函館の五稜郭に入り、榎本武揚と合流してしまった。
 この函館五稜郭で脱籍徳川家臣同盟の桑名藩士、藩主の松平定敬、そして新撰組に入っていた森陳明たちが揃ったのである。
 この様子に心を痛めていたのが桑名にあった地元藩士たちである。
そして家老の酒井孫八郎はじめ要職にある者が、努力に努力を重ねて主君の恭順をはかることに尽力した。

 その戊辰最後の激戦もむなしかった。五稜郭の敗色が濃厚となったある日、松平定敬は五稜郭から脱出したのであった。それははるばる桑名からやってきて彼を説得した、家臣たちの心情に応じた結果だった。
 そして新撰組の土方歳三も戦死し榎本武揚は降伏した。
 明治政府は官軍に反逆した者を比較的寛大に処した。しかし旧幕側の会津と桑名はもっとも憎い朝敵だった。落城の直前に藩主が脱出して恭順しただけで罪を許すことはできない。
 その生贄が森陳明であった。
彼は桑名藩の逆賊の汚名を一人で背負い、明治二年に刑場の露と消えた
のである。彼の辞世

  なかなかに惜しき命にありながら
       君のためには何といふべき桑名の十念寺にある碑

 恭順した松平萬之助は明治二年、定敬の方はは明治五年に罪を許され
た。いま桑名城跡には定敬が建立した戊辰戦役の犠牲者を弔う石碑、そして十念寺には森陳明の墓がある。
 森陳明はいまも〔桑名義士〕として敬われている。

 江戸の亀山藩邸を脱藩して上野彰義隊に加わった二人、その後は各地を転戦し蝦夷地まで森と行動を共にしたらしい。

また森陳明に誘われた江戸留守居役の松井祐助は松井久平に改名し、三重県庁職員や亀山の江ケ室区長などを務めたあと、明治二十八年四月一日に亡くなった。
 享年六十五歳だった。

 
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