東海道の昔の話(7)
   芭蕉の句碑            愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/15投稿
 
 貞享二年(1688) 春三月。
 近江国の膳所宿にある一軒の宿が昼間から賑わっている。
旅人が宿泊する宿は早朝か夕方に出入りが激しくなるのだが、そこは宗匠頭巾を被った人々ばかりだった。そう本日は俳偕の巨匠、芭蕉を迎えて句会が催されている。集まったのは地元の近江はもちろん、京大坂、美濃路からも、芭蕉の名声を慕って直弟子や孫弟子たちが顔をそろえた。
 句会は大きな体躯の浜田珍碩の挨拶ではじまった。
  『本日はここにおります乙州君の門出に際して
   送別句会に遠方からご参集いただき、ありがとう
   ございます。また青桃、芭蕉宗匠のご出席もたまわり、
   感謝を申しあげる次第でございます。』
 この句会は近江在住の川井又七、号を乙州(おとぐに)と名乗る人が江戸へ出発するための歓送会なのだった。彼は芭蕉の弟子のなかでも優れた句を詠むので知られ、このたび一念発起し江戸で俳諧師として生きる道を選んだのである。
珍碩の挨拶に続いて主客の乙州が挨拶をした。
  『本日は私のため芭蕉宗匠をはじめ、かくも大勢の…』
あとは嗚咽となって声にならない。これまでの長い年月を同じ俳諧の道を共にたどってきた仲間たち、懐かしいこの顔とも別れることになる。
江戸ははるか彼方にある。そこは自分にとって果たして希望の土地なのか、苦しい挫折の入り口なのだろうか。いろんな思いが胸につかえたのであろう。

やがて句会がスタートした。
人々はそれぞれお互いの顔が見えるように座る。そして筆硯と短冊を座布団の前に置いた。まず師匠の芭蕉が発句を詠み、それを引き取ってつぎの人が下の句を詠む。このようにしてつぎつぎに句を詠み短冊に書いていく。ひとまわり句が詠まれたのち、またつぎの廻りがはじまった。

まず芭蕉が詠んだ。

 ほっしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山     芭蕉
     
 人々にはその句の意味と芭蕉の心がすぐに判り、これが詠じられると一座がシーンと静まってしまった。それは 

   「我が行く道の左右は、はるかに続く青い田畑である。
   心なしか眼に見えるは山路の若葉、その葉の伸びまでが
   何と生気を欠いて力無く映ることか…。いまの我が心にはそう見える。
   その若葉にそよ風がうたうように吹いてゆく。
    あゝそう云えばこゝは鈴鹿山に近い麓の田畑だ。 
   我れはひとたび無常を観じて出発し、苦しくもこゝまで来
   たけれど、こうして発心の心をきめて回国の旅に出たものゝ、
   その初めに越えることになる世に名高い鈴鹿山の険。
    こゝを越えれば、さすがに未だ残る未練の心も、きれい
   さっぱりと消え去ってくれるだろうか…。
   しかし一方また苦しいことの重なりが待っているかも知れ
   ない。しかしこれは頑張るしかない」

 自分の行く末をかくまで案じてくれる師匠、乙州はただ涙を拭ってうつむいているばかりだったが、やがて思い切って続きの下の句を披露した。

    内蔵助かと呼声はたれ         乙州

 「一念発起して行脚の旅に出たのだが、こうして都をはるかに
  離れていくと思うと、さすがに心は乱れていく。この発心の
  旅を続けて、初めてそれもいよいよ越えて行く鈴鹿山なのだ。
   峠あたりで、よもや知る人がいるはずがないと思ったのに、
     『そなたは内蔵助ではないか?』
  と声をかけられた。人違いだったが、一瞬不安の心に灯がさす
  思いがした。しかしあれはいったい誰だったのだろうか…」 
 少しでも師匠の心使いに感謝の思いを伝えたい歌だった。

 大津膳所でのこの句会で詠まれたそれぞれの句は、のち「梅若集」に収録され俳諧七部集として上梓された。また向井去来は芭蕉のこの句を名句中の名句として、元禄七年に刊行した「浪化宛去来書簡」の中に句の解説をのせ、自分も一句詠んでいる。鈴鹿峠の芭蕉の句碑

   行脚して歌よみ初(そ)むる鈴鹿山    去来

 近年、この峠みちに芭蕉の発句の碑が立てられた。


     参考文献  「俳諧七部集」
 
戻る