東海道の昔の話(75) 稲富流砲術ものがたり2 愛知厚顔 2004/6/6 投稿 |
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そうこうするうち慶長十三年(1608)になりました。この当時の武将たちは自衛上、一種の盟約を結んでおり、主従の誓約を破ったり反逆を企てたりしたものを、旧主の承諾なしに召し抱えることはしない、そういう不文律ができていました。 しかし徳川家康は稲富直家の鉄砲設計製作操作や火薬調合の技術、さらに射撃術の非凡なるを惜しみ、側近に 『徳川家に仕える気があるか、探ってまいれ』 と命じたのです。その当時、直家のほうも家計が逼迫していたこともあり 『どうかよろしきよう、お取り計らい願います』 と返事をしました。そこで家康は旧主の細川忠興に書をしたため 『もうそろそろ許してやったらどうか』 と諭したのです。忠興も家康の意向には逆らえません。日ならずして直家の罪を許したのでした。家康はさっそく彼を駿府城に召しだし、砲術の秘伝を教えてもらったといいます。 その後、二代将軍徳川秀忠も稲富直家をたびたび江戸に召し出し、家臣たちに彼から砲術を学ばせました。直家はずっと恩顧ある徳川家に仕え、尾張大納言徳川義直にも重宝されました。慶長十六年(1611)二月六日に駿府城内 で亡くなりました。享年六十歳でした。 これよりずっと前にさかのぼります。 大和源氏の末裔で美濃の豪族に石川直俊という人がいました。彼は稲富直家について熱心に砲術を学んでましたが、やがて短い日数のうちにその秘伝をことごとくマスターしました。そして姓を〔名川〕と改め稲富直家の孫の長女と 結婚したのです。 そして大垣城主、石川家成、康通、忠総公の三代に仕え、城主の子息や藩士たちに砲術を指南するようになりました。やがて大阪冬の陣、夏の陣の合戦が起こると、名川直俊はこれに参加し戦功をあげます。稲富家のほうはその後男の子に恵まれず、直俊の主君、石川忠総に 『稲富の姓を名川直俊に譲ることをお許しください』 と願い出たのです。これで正親町天皇からの勅許を得た稲富姓と家紋、それらを名川家に引き継がれたのです。 元和二年三月八日(1616)のことです。 石川家の家老で加藤與兵衛の家来で某という者が、大阪で主人の與兵衛の寝室を襲い、主人ほか家族全員を殺害して逃亡する事件が発生しました。 名川直俊あらため稲富直俊は主君、石川忠総の命を奉じて加害者を追跡し、兵庫の玉造口で犯人を捕らえ成敗したのですが、このとき自分も全身に七ヶ所も手傷を負ったのです。 犯人は家老加藤與兵衛の刀を奪って所持してました。あとになってこれは祐定の銘が入った名刀と判明したのですが、のちに特別に稲富直俊に下賜されました。たしかいまも亀山市江ケ室町の稲富家に伝えられています。 祐定作の刀はその数が多く、わりあいに駄作という人もいるようですが、慶長以前の作にはすごい名刀だと言われております。 その後、稲富直俊は美濃大垣に帰って傷の療養をしてました。主君の石川忠総が九州豊後の日田に移封となりました。しかし傷の痛みが激しい彼は主君に従うことが出来ず、美濃国安八郡三塚の地に留まりました。そして元和五年 (1619) 七月十六日にその地で没したのです。 稲富直俊には十一歳の長子、茂清と十歳の次男、尚房がいましたが、名古屋に在住していた親戚の稲富富士佐に預けられました。 寛永元年(1624)ごろ、石川忠総は江戸から豊後に帰る途中でした。このとき成長した長子、稲富茂清は名古屋熱田で忠総公に拝謁することができました。その後、稲富茂清も豊後にやってきました。ところが忠総公がこんどは関東の下総国の佐倉、つぎはまた近江膳所など転々と移封されたのです。。実直な茂清も主君に従って転々としていったのです。慶安四年(1651)稲富茂清の子、直勝の時代になり、主君も忠総の孫、石川昌勝公となりました。彼が伊勢亀山へ移封になると、稲富直勝もこれに従って亀山に転じました。 この稲富茂清の三男尚寿は、石川昌勝公の支族伊勢神戸城主の石川総長に使えることになりました。しかし後にこれを辞して京都にいき医学を修めました。彼はやがて名医の名をほしいままにし、法眼に叙せられたのです。 戻る (続く) |
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