東海道の昔の話(77) 尾張藩の横車 1 愛知厚顔 2004/6/9 投稿 |
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慶応三年(1867)、この前年には幕府連合軍による第二次長州征伐が不成功に終わり、年末には孝明天皇が崩御され、薩摩と長州を主力とする勤皇側と佐幕側とが、ますます激しく駆け引きを行ない争そっていた。亀山藩も江戸と京都、さらに摂津の橋本駅と三方面に藩士を派遣し、幕末動乱の真っ只中にあった。 そんな六月のある日、尾張藩から一通の書状が亀山城に届いた。天下の御三家、六十一万石の大藩からである。 「なにごとだろう?」 御用人の川上多善はいぶかしげに封を切って読むと、 『亀山藩に申し入れたきことがあり、家老一人を 差し向けて説明する。お聞き届けられるよう 希望する』 とある。そして派遣される家老の名前は榊原勘解由と書かれてあった。驚いた多善はさっそく上司の年寄、市川数馬に報告した。彼も一読して驚き、家老の名川六郎右衛門の元に走った。 「いったいどういう内容の申し入れなのか?、 何か我が藩が尾張藩に不都合なことでもしたのか? 筆頭家老殿は江戸駐在につき、これは我らで応対し 処理せねばなるまい」 筆頭家老の加藤内善は江戸駐在の責任者なので不在である。 国元にいる名川が最高責任者として対応する腹を決めた。彼は同じ家老の佐治亘理を呼び、思い当たることがないか聞いたが、佐治は 『いっこうに存ぜぬ。何のことやら判然としな いものを心配するより、使者の申し入れを聞 いてからでも遅くない。あと数日もすれば使者 も到着する。先方に失礼があってはならぬ。 使者接待の準備手配りをしようではないか』 それもそうだ。藩の重役たちはそう決めると、まず使者の榊原勘解由の身元を調査した。すると彼は尾張藩大御番頭千五百石、それに妻は三河挙母藩主内藤政優の娘であり、この藩主は桜田門外で難にあったあの井伊直弼の実兄である。 『なんという大物だ。だが彼は兵務の担当のはず、 外交担当でもないのに何故?、これは我が藩に 何か大変悪いことにならなければいいが…』 いろいろ頭痛を重ねながら、亀山城内は使者に粗相のないよう万全の手配りをおこなった。 六月九日。使者が到着した。榊原勘解由は五十八歳、供五人を従え貫禄充分な体躯で亀山城へ入る。そして藩主、石川成之に伺候挨拶をした。 『暑い中、大変ご苦労様でした。お話の内容は 当藩の重役一同で伺います。まずごゆるりと お寛ぎのほどを』 成之も相手が大藩の家老なのでおろそかにできない。 やがて一同は別室におもむき、さっそく会談が始まった。 亀山側は家老の名川六郎右衛門を主席とし、佐治亘理家老、そして川上多善が同席した。 『ではさっそく尾張藩からの申し入れ を説明します。』 榊原はここで言葉を切り茶をすすった。亀山の三人は身がまえる。 『貴藩領内に広瀬野という原野があります。 これを貴藩では自領として来られたようで すが、広瀬野は我が尾張藩の所領です。 この事実をまずご確認頂きたい』 あまりにも唐突、かつ重大な申し入れに三人は驚いた。 広瀬野は亀山城から北へ約二里、広大な原野である。 その昔、明和五年の農民一揆では五千六百人もの農民が集まった。日ごろは夏草が生い茂り、牛や馬の飼料が得られる。また農家の屋根材としての茅も生い茂る。秋ともなれば萩、桔梗、女郎花が咲き乱れる。そのころはまた狐、狸兎が跳ね、キジや小鳥が飛び交う絶好の狩猟場でもあった。 第二次大戦では飛行場も造成されたが、戦後は大企業も進出したり、開拓が進んで肥沃な農地に変貌している。 名川六郎右衛門は言葉もきつくなる。 『それはまた異なことを!』 榊原勘解由はそれを抑えるように 『我が藩が徳川御三家の親藩たるをお忘れ ですか。その昔、神君家康公から ヒバリのつくところは何処も尾張様御鷹場 と知るべし、との御沙汰があります。 これはヒバリなど鳥類が飛び立つ原野は 尾張藩の所領ということです。従って 広瀬野は尾張藩領なのです』 説明を聞いて、ますます驚いてしまった。 『それは単に狩猟の権利を示された一条です。 私どもも存じてますが、それを領土権と混同 されては困ります。』 まるで子供でも判る屁理屈、これを大藩の重役が当然のように主張している。三人は唖然としてしまった。 しかし申し入れの内容がこの程度なら安心である。誰にだって反論できる。こんどは佐治亘理が言った。 『神君家康公はまたこの様にも示されています。 鷹の飛び立つところ、すべて紀州様御鷹場 と知るべし。鷹は全国の田圃で飛び立ったり、 下りたりしています。尾張様の理屈では、 これらはことごとく紀州様の領土になるの でしょうか?』 『そんなことも言われていたのか、それは…』 榊原は言葉に詰まってしまった。亀山側は更に 『紀州様だけでなく水戸様にも同じ一条 を仰せです。尾張様のご見解が正しいならば、 もし尾張様領の原野に鷹が下りたなら、そこ は紀州様や水戸様の領土になるのでしょうか?』 そう言われてみると榊原は返す言葉を失ってしまう。これまでの大様な態度がそわそわしてきた。しばらく黙っていたが、とうとう 『亀山藩の主張はよく理解しました。これを 名古屋城に持ち帰り、よく検討したうえ後日 ご返事をいたします。』 そう言うと、成之公への挨拶もそこそこに、亀山城を去っていったのであった。 亀山側はその姿を見送りながら 「子供でも判る横車だな。大藩が小藩を利用したり、 あるいは圧迫したりすることはよくあることだが、 まさかあの尾張藩が本気でこんな主張するとは 思えない。この件に限っては尾張藩の真意が判ら ない」 「今回の尾張藩の行動は、まるで虎が一切れの肉を 争うようなもの。我が亀山藩は小藩だが、数百の 士卒は一滴の血液がある間、剣を抜く掌がある。 また銃を担う肩もある。誠実で勇敢な者たちが 国境を守ってくれている。何ぞ故なくして尾張藩 の侵略を許すことなどあるものか…」 名川のつぶやきに、一同は頷いて賛同したのであった。 榊原勘解由が尾張へ戻ってから一ヶ月。もうそろそろ何か言ってくるころだろうと待っていたが、一向に音沙汰がない。家老たちは 『天下の尾張様が子供にも等しい難題を本気で 吹きかけてくるはずがない。おそらくこれは榊原 ひとりの策略だろう』 と考えていた。 (続く) |
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