東海道の昔の話(79) 備中中津井陣屋 愛知厚顔 2004/6/11 投稿 |
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延享元年(1744)三月一日、幕府から亀山城主板倉周防守勝澄に対し備中松山に移封の命がくだった。その後にはその前の松山城主、石川主殿頭総慶が入ることになった。交代移封すなわち相互転勤である。 だが藩主ひとりが移動するだけでなく、彼に従う家臣や家族、家財、什器などの膨大な量の移動も伴う。板倉勝澄側では住家の数が三百六十軒余、家臣、家族、雇人を合わせると二千人を越える。もちろん全部を引き連れていくわけでない。亀山に残留を希望するものを除いても相当な人数となる。それに板倉勝澄は相当額の借金を払わず、石川総慶に残して去ることになった。 四月に入ってから双方は先遣隊若干を派遣した。 松山の石川家からは名川六郎右衛門、加藤斎院らが約八十人を引率して亀山城に到着した。 五月に入ると重役の近藤外記が大部隊を引き連れ、船に乗って白子浦に上陸する。この移封に際して石川総慶は家臣家族雇人の合計三千余人を引き連れてきたという。備中松山に残留したもの殆どなしという有様であった。 現代では考えられない大移動である。江戸幕府がしばしば行った藩主の移封の目的のひとつに、彼らが財力や戦力を蓄え、反幕行動を起こすことを恐れたため、あえて散財させたとも言われている。 この藩主双方の交代によって備中阿賀郡中津井村の十三ケ村、一万石が石川総慶へ与えられ伊勢亀山藩の飛び地となった。 以来、明治にいたる百二十七年もの間、中津井村に亀山藩の出先行政機関の陣屋が置かれることになった。 新政府が成立して間もない明治四年七月、亀山藩は亀山県となった。暫定知事だった旧藩主石川成之は罷免され、大参事の近藤鐸山があとを引き継いだ。多くの旧藩主たちは東京に集められる。 武蔵野に移し植えたる龍胆花 清く美し寂しなつかし 別れを惜しんだ旧家臣の歌、龍胆花は石川家の家紋である。 十二月に入ると、備中二郡の飛び地十三ケ村は深津県となったが、中津井陣屋と行政組織はそのまま引き継がれ、亀山県の施政が続いていた。 明治五年正月(1872)、この中津井村で突如暴動が発生した。 その原因はいまでいう同和問題である。何百年もの長い間いわれなき差別を受けてきた人々、その人たちの差別的な呼び方を廃し、ことごとく普通の住民として受け入れ、生活や就業などでもまったく差別のないようにせよ、との通達が前年の八月に出されていた。 中津井村でも長い間、いわれなき差別に苦しんだ人々がいた。 『これでやっと人並みの生活ができる。』 喜んだのも束の間、周囲の人々が注ぐ眼は一朝一夕には変わらない。相変わらず差別的、侮蔑的な言葉や仕事を押し付けられていた。 同和差別問題が反社会的なものとして糾弾されて久しいが、いまも完全に払拭されたとはいえないだろう。 差別されてきた人々に周囲が押し付けていた仕事、それは普通の人が忌み嫌う盗賊の捜索やホームレスの追放、道端で倒れた牛馬の処理などである。新政府の通達を知った人たちは 『これからは皆と対等の住民である。したがって これらの仕事を我らに押し付けられる謂れはない』 と固辞したのである。至極当然の理由だったのだが、周囲の一般住民はこの人々をまったく理解できなかった。 『なにを増長したことを言う』 と、ますます侮蔑した態度をとるようになった。こうしてお互いに反目した状態がしばらく続いた。 正月十四日、長い間差別されてきた数人の人が村の居酒屋に入り 『酒を飲ませてくれ』 と注文したところ、居合わせた村人が 『あんな奴らに酒なんか出すな!』 と妨害行為にでた。そうなると 『私らも普通の村民だ。普通に酒を売れ!』 と叫ぶ。それを腕力で止めようとし、とうとう喧嘩になってしまった。それを見た居酒屋の主人は驚いて近所の村人たちに 『大変だ!助けてくれ!』 大声で叫んで触れまわったのである。それを聞いた村人たちは法螺貝を吹き半鐘を鳴らして人を集めた。そして大勢の数の勢いで居酒屋に押しかけてきた。それを見た人たちは驚いて逃げ出し、村役人の家に助けを求めた。村人はますます激昂し大勢で役人の家を取り囲み 『そいつを出せ!』 と強引に引渡しを要求するが、そんな非道は許されない 『それは出来ない、静かにそれぞれの家に帰れ』 役人は大声で諭したのだが、激昂した暴徒には聞こえなかった。 とうとう 『ええい面倒くさい、そいつもやってしまえ!』 と、庇い立てをした役人を一人撃ち殺してしまった。血を見てますます暴徒たちは興奮する。そうなるともう止めようがない。 追われて逃げ込んだ人たちは、暴徒の隙をみて裏の竹林に逃れるのがやっとだった。 一夜が明けた。 暴徒と化した大勢の村人たちは一向に静まらない。 『今日は奴らを全滅させるぞ』 手にした鉄砲を構え、竹林を包囲して銃撃したのである。まったく無謀な行為なのだが、彼らはまったく正当な行動と考えていた。そのあげく哀れにも三人が撃ち倒され犠牲となった。 このとき追われた人々は竹林に伏せて銃撃を避けたのだが、もしそれが竹林でなかったなら、もっと犠牲者を出していただろう。 この暴動が起きたとき中津井陣屋の亀山県支庁には、亀山から派遣された役人が十数名いたのだが、この一報が入ると責任者の新太久馬は 部下を指揮して暴徒の鎮圧に当たった。 『いまのうちなら罪は軽い、それぞれの家に帰れ!』 必死に説得したのだが、残念ながら圧倒的な数の暴徒を鎮めるのは困難である。止むをえず新太は急使を走らせて隣りの高梁県に応援を頼んだ。 その結果多数の警察役人が来援し、翌十六日になってようやく暴動を鎮圧させることに成功したのだった。 当時は通信手段もない時代、この暴動の報告が亀山県本庁に到達したのは二十一日である。そして本庁から田辺量治を責任者とする鎮圧処理隊が派遣された。暴徒の首謀者が完全に逮捕され、裁判所に告発されたのはずっと月日が経過したのちだった。 いまでは想像もできない非道な出来事である。 こんないわれなき差別を 「いまはもうどこにもない、昔の話だ」 と私たちははたして胸を張って言えるだろうかと思う。 備中中津井陣屋は復元されて岡山県上房郡北房町下中津井にある。 ここは岡山県のほぼ中央部に位置し、中津井街道沿いの古い町並みが残る町である。ここへの交通手段はJR伯備線、備中高梁駅か姫新線の美作落合駅からバスで中津井下車。自動車なら中国道の北房ICから国道313号に入る。陣屋前に駐車場がある。 いまでも北房町では「ブリ市」が厳冬の二月に開かれる。 むかしこの地方の人たちは粗末な食事であり、淡白質栄養不足がちであった。そこで陣屋ではブリなどの魚を食べることを奨励した。 いまは町挙げてのイベントになっており、当日は伊勢亀山藩から飛脚で「ブリ市許可状」が到着し、それを主催者に伝達するという設定でオープニングする。 街角には「ブリ小屋」が五ケ所も設けられ、天然ブリが五百尾もつぎつぎにさばかれ、飛ぶように売れていく。他にも特産品、雑貨、軽食店、露天商が並び、大道芸のチンドン屋も繰り出す。 商店会の人は代官様や奥方、家老、役人などに扮し、若者も町を練り歩く。 この北房町にとって、伊勢の亀山はいまも身近な存在なのである。 |
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