東海道の昔の話(8) 大高源五の旅 愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/17投稿 |
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元禄十年(1697)七月、一つの大名行列の一行がいっせいに休憩に入った。ここは関宿と坂下宿との中間あたりにある藤ノ木茶屋である。目の前には筆捨山が手にとるように見え、足元には深い鈴鹿川(八十瀬川)が瀬や淵をつくり、岩を噛んでごうごうと流れている。 行列の主は播州赤穂の藩主浅野公である。関宿で行列を整えるため雇った助郷人夫は解雇し、休息している人数はごく少数になった。 どこの大名も国元から江戸まで、大人数で参勤交代の行列を組んだら莫大な出費になってしまう。人気のない山の中まで大層な行列は不用。そこで町並部分だけ格好をつけるため、助郷という臨時の人夫を雇うのである。 幕末維新戦争のとき北陸最大の激戦となった越後長岡戦争。その長岡藩を指揮したのが家老の河合継之助だが、彼が若いとき備中松山に遊学するとき、鈴鹿の山中で出会った大名行列の様子を日記に残している。 『六月廿七日…鈴鹿山を越ゆるとき、小笠原候に逢。また 坂ノ下より鈴鹿山を下りて猶諸候の御供に逢ふ。 尤、バラバラ、勝手に往来す。候の御駕籠脇は至て不精、 御小姓不居、勝手のものなり。其他、海道にて大名の 往来数々あれ共、一々不覚、松山候の供は中々大勢なり、 桑名候は至て少なく省略のものなり』 鈴鹿峠の急な坂道では格好つけた行列では歩けない。小藩はかなり省略した行列をしている実態がよくわかる。 浅野公の一行は思い思いに藤ノ木茶屋で休息し、風景を眺めて楽しんでいる。このときお供の一人の若侍が少し離れた場所で休息をとった。ここはやはり筆捨山や鈴鹿川の景色を愛でる絶好の場所なのだ。 この茶店は”さばずし”や名物の”ところ”を食べさせるので有名だった。それは山ノ芋や山菜をうまく煮付けた料理である。 『親父、拙者にも、ところをひと皿貰おうかな』 若侍は主人に注文した。年格好は二十五、六才だろうか。腕に覚えがありそうながっしりした体躯、そして隙のない物腰。しかし柔和な眼には知性が溢れている。 『親父、本当にすばらしい景色だなあ。ことに向かいの山が 面白い。大きな岩に松がからんでいるのも風情がある。 古へに法眼が筆を捨てた筆捨山と云うた山はこれかあ?。 想像したよりも険しさはないが、そんなに絵にするには 難しいのだろうかな…』 『旅のお方はどなたも同じことを云われます。 しかし毎日この山を眺めていますと、刻々と光の具合で 山の色が変化します。ことに五月雨のころや晩秋の頃が 一番変化が激しいのです。 このあいだも旅のお方がこんな歌を残されました』 主人が店の奥から持もってきた一枚の色紙、侍がそれを手にして見ると うつすとも得やは及ばじ軒端より 手にとるほどの筆捨の松 迂斎 墨痕あざやかに詠まれている。 『ほお、これは見事な筆だね…。親父さんも良い歌をもらったね。 実は拙者も俳偕を少々たしなんでおってね…。 しかしこの山が描けないかったとは、狩野法眼もかなり絵は 下手くそと思われるなあ…』 そう云うと侍は矢立と紙の綴りを取り出した。そしてちょっと頭を上げてサラさらとしたためた。 どのような朱筆なりけん秋の山 子葉 『…朱筆は下手糞という意味もあるのだが、拙者の句もいっ こうにうまくならないなあ。これを見たら宝井基角宗匠 は何と云うだろうな…』 つぶやきながら、侍は筆を続けて日記を書いていった。 「七月十九日、…坂ノ下までの道すがら、木のふり、山の たたずまい風情なり。一ノ瀬といえる所へ取り付く。右 の深山を古法眼が筆捨山をいふよし。げにも此の山の粧、 神仙のとどまりぬべく見ゆ」 『出発するぞ』 一行の指揮をとる家老の声、この侍ははいと返事をしながらつぶやいた。 『この楽しい旅、安息の日々が続くといいが…』 丁丑紀行と表記された日記の主は、大高源五という赤穂藩士であり、吉良邸討ち入りの四年前であった。 参考文献 大高源吾 「丁丑紀行」 河合継之助「塵壷」 三浦迂斎「東海済勝記」 |
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