東海道の昔の話(87) 二人の剣士 1 愛知厚顔 2004/6/25 投稿 |
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“ゴーン” あの音は寛永寺の鐘だな。いつもよりよく聞こえる。 亀山藩江戸上屋敷は上野新黒門町にあり寛永寺に近い。 『きょうは良い天気になったな…』 ここ数日、江戸ではめずらしく雪の毎日だったが、きようは朝からまぶしい太陽が輝いている。彼は厠に立ったとき手水を使いながら、ふと空を見上げてつぶやいた。庭先の築山や石灯篭に積もった雪が、早くも融けはじめてぽたぽたと雫を落としている。ピーンと張り詰めた冷気も今日は少し緩むか…。 だが剣の修行は寒いくらいのがよい。そのとき雪掻きを終えたばかりの飛び石を一人の使用人が渡ってきて 『おはようございます。山崎様、先ほどこの書状が 届きました。』 一通の封書を手渡した。裏を返すと差出人は「常同子」とある。 「あっ八代目宗家からだ!」 先生に何か悪いことが…、藩の公務が忙しくて、ここしばらくはお会いしていない。少し不安がよぎる思いで拭いた手で封を切る。 「倅のことでご相談したきことあり、 道場までご足労を願う」 手紙の主は心形刀流伊庭道場の八代目宗家、伊庭軍兵衛秀業である。もっともいまは高弟の塀和惣太郎が九代目を継いでいる。 山崎利右衛門は藩邸で午前中の公務を済ませると、下谷御徒町にある心形刀流の伊庭道場まで急いでいった。 心形刀流とは心の迷いを払い、己の本心に出会ったとき、刀もまた自分自身であり、剣心一如の世界が具現されるというもの、剣の修行を通じて自らをその境地に至らしめるという、究極の教えを持っている。 剣の修行を通じ宗教的な悟りの境地にまで、自己を高めるのを目的としていた。初代の伊庭惣左衛門秀明いらいの究極の教えである。そのため父子相伝によることなく、実力のある門弟が宗家を引き継ぐこともあった。 このころ江戸では技の千葉と云われた北辰一刀流の千葉周作、力の斉藤といわれた神道無念流の斉藤弥九郎、品格第一の鏡神明智流の桃井八郎左衛門の道場が三大道場といわれた。 それに心形刀流の伊庭道場を加え、江戸四大道場と称された。 山崎利右衛門、のちの山崎雪柳軒が学んだ八代目のころは、門人が千人を越える盛況ぶり。その門人名簿はあまりにも分厚いので、千枚通しで綴じようとしても通らなかったといわれる。 下谷御徒町に三百坪の敷地内があり、五十坪の道場、そして六十坪が母屋、九十坪の中間と長屋、残りが庭という広壮な規模であった。 「エイッ!」「オウッ!」 雪が止んだ今日も大勢の門人が修行をしている。 威勢のよい掛け声とパシッという竹刀の音が響いてくる。山崎が道場に顔を出すと、あたりの空気が一瞬緊張した。それは彼が道場で一番きびしい師範だからであろう。 『いやいや、きょうは母屋に用があってきた。 皆さんの面倒はあとでゆっくり見るよ。』 山崎雪柳軒は長い年月を剣の修行ひと筋に励み、いまでは道場でも屈指の実力を持つ師範となった。今日はそのまま笑顔で通り過ぎ母屋にむかった。 『いやあお待ちしてました。』 三十二才の山崎から幾つ年上になるのだろうか…、恩師の伊庭秀業はもう半分以上が白髪になっている。やはり息子の心労のせいなのか…。 『実は不肖の倅のことだが、あれは生まれつき 身体が弱く、医者の世話ばかりになってきた。しかし もう年も十四になる。武士の子はとうに剣術を学んで いるというのに、あれにいくら竹刀を持たせてようと しても駄目だ。毎日本ばかり読んでいる。 おかげで役者のように色白で華奢な男だ。親の自分 が言い聞かせるのも甘えがあり限界がある。あれが 一番尊敬している山崎さんから、少し言い聞かせて 貰えないだろうか…』 こんな依頼であった。あれとは秀業の長男で八郎秀頼のことである。そのとき九代目宗家の伊庭惣太郎も顔を出した。 『私からも頼みます。』 恩師の伊庭秀業は剣の実力を見込まれ、ときの老中水野忠邦から二百俵扶持を頂戴する留守居役与力に抜擢されたのだが、天保の改革に失敗して水野忠邦が失脚した。その害が伊庭道場に及ぶのを避けるために、門人の塀和惣太郎に九代目宗家を継がせた。そのとき八郎を含む秀業の五人の子供全員を惣太郎の養子としたのである。九代目には自分の実子二人を合わせると十四人の大家族がいた。そして隠居した八代目も養子にやった八郎が、実子である故に可愛いのである。 山崎は 「剣術はいささか教える自信があるが、 他人の家庭内に入ることはどうか…」 少しうんざりしたが、恩師の頼みは断われない。 数日して山崎は八郎を母屋に呼び出した。親が言うとおり色が真っ白で女のような身体つき、武士の子というより役者の倅のようである。こでれは下手すると女たちが放っておかないだろう。 『八郎君はいくつになった?』 『十四才になります。』 『そうか、もう来年は元服して大人だな。 親父さんから聞いたが、本が好きだそうだな。 どんな本を読んでいる?』 『大学とか四書とかのあまり難しいのは苦手です。 いまは馬琴を読んでます。』 『あれか…、私は読んでないが南総里見八犬伝とか は江戸でも評判になってたね。だがもっと面白いもの もあるよ。ぜひこっちも読んでみなさい。』 山崎は 「本なんか読むのは止めて剣術に励みなさい」 と言いたかったが、あわてずに彼が自ら決心する方法を選んのである。 彼が推奨した本とは宮本武蔵の五輪書であった。 『すこし難しいかも知れんが、いちど試しに 読んでごらん』 と、持ってきた五輪書と武蔵の試合姿を描いた大和絵を八郎に渡した。あとで感想を聞かせてほしい。そういう約束をして山崎はその日は別れたのである。 それからいくばくかの月日が流れた。八郎とはその後は数回顔を合わせたことがあるが、読んだかとか感想はどうかとか、一切こちらから声をかけることを控えていた。 それがまた半年ほど経ったある日、山崎が道場で教えていると、八代目と九代目がやってきて 『あなたの御蔭であれから剣術をはじめましたよ。』 と喜んでくれたのであった。どうやらあの本と絵の効果があったらしい。 それに心形刀流は宮本武蔵の二刀流の流れも取り入れ、二刀を駆使して勝負する技も沢山あった。憧れの武蔵の形も魅力だったのかも…。 山崎も 『私のせいではありません。八郎さんは 宗家の御血筋ですよ』 と謙遜して師に述べるに止めた。 〔続く〕 |
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