東海道の昔の話(9) 孝子万吉 愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/19投稿 |
||
鈴鹿峠の廿七曲がり坂を下りると、鈴鹿権現、片山神社がある。 その鳥居の左には孝子万吉の顕彰碑が建っている。 いまの時代は孝子とか賢母とかは少しなじまない。下手をすると母子貧困家庭と誤解され縁談にも差しさわる。しかしつい最近までは、これが美談として顕彰されたものである。万吉の碑文にくわしく刻まれているが、江戸の蜀山人、大田南畝は随筆「一話一言」に万吉を紹介している。 孝子万吉は伊勢国鈴鹿郡坂ノ下古町の人。 父は市右衛門、母は久米という。家は大変貧しく、日々街道に出ては旅人の荷物を運び、わずかな謝礼で生活していた。 安永八年(1779)三月、父が病死した。万吉がわずか四歳のときである。村の人々も母の年がまだ若いので、寡婦としてこの先幼児を抱えての生活が大変だろうと、再婚を勧めたが、母はこれを受け入れなかった。 いつも幼児を懐に抱いて、麦つき稲こぎなどに雇われて露命をつないでいた。ところがこんな苦労が重なったのか、母が癪の病気になって寝込んでしまった。 僅かな持ち山も人手に渡り、炊事に使う火にも困る有様だった。 万吉が六歳のとき深くこれを嘆き、母の病気がひどいときは薬を買ってきてこれを飲ませ、身体を揉みさすって病をやわらげる。 また毎日、街道に出ては、行き来する旅人の小さな荷物を持って、わずかな運賃をもらう。しかしまだ幼いので思い大きな荷物は持てない。 少しの風呂敷包あるいは槍長刀などを持ち、鈴鹿峠を登り下りしていたが、わずか三銭五銭にしかならなかった。来る日も来る日もこれを怠らなかった。そして何回も家に立ち帰って母の様子をうかがい、夕方には集めた銭を母に渡すのだった。 天明三年(1783)は大飢饉の年。五穀の収穫がまったくふるわず、国中が飢饉で苦しんだ。普通の農商の人でも餓死者が多いというとき、この万吉は力をふりしぼり、半合一夕の米穀を貰っては母に与える。その母が食事を取らないときは、自分も一粒の御飯も食べなかった。 その苦労は並み大抵ではなかった。その頃になってようやく近隣に万吉の孝養が知られだしたのである。 ある日、江戸の幕臣、石川忠房候が大阪城番の勤務が満了したので、帰途にここを通過したところ、万吉の様子を見て非常に感心した。 彼は万吉の家まで出かけ白銀などを与えて激励した。母子は大変喜んで厚く礼をのべたのだった。万吉は頂いた白銀を持って傍らの部屋へいって平身して伏した。石川候はそれを見て 『彼は何をしているのか』 と尋ねると、母は 『父の位牌に手向けて礼をのべています』 と云う。石川候はますます感涙を催したのであった。万吉は客から餅などを貰っても自分では食べず、持ち帰って母に与える。人々はみな感心してお金などを与えたり、または手習いの筆硯などを与えるのだった。 天明四年(1784)甲辰の秋、幕府大御番役の三橋成烈氏が鈴鹿峠を越えたときの歌。 尋ねずばかけても知らじ母木々の 木陰の露に秋をふる身と この歌を冷泉民部為泰卿が御覧になり なでしこのこれぞまことの花の露 かかるもありとあはれにぞきく と詠じられ、この歌を額に入れて万吉の家に掲げさせたという。 この万吉の至孝が畏れおおくも御公儀に聞き召された。 満十二才の春、天明七年(1787)三月四日。幕府江戸城にてときの道中奉行の桑原伊予守さまより、ご褒美として白銀廿枚を賜り、また母を養うため一日五合ずつ米を長く下しおかれることになった。実に顕楊の徳の極みであった。大田南畝も彼が江戸滞在中に宿まで出向いたが、大勢の来客で溢れており、面会をあきらめている。 万吉のその後の人生について、文化十年(1821)には母が亡くなった。 そして四十六才のとき坂下駅宿の支配者だった近江国信楽代官、多羅尾鞆負に召し出されて足軽となり、俸給をもらう身になった。 万延元年(1860)十二月二十八日に満八十五才で亡くなった。非常に長寿であった。 昭和の初めまでは万吉の屋敷跡も坂ノ下古町の街道筋にあったらしいが、いまは地元で聞いても知る人はいなかった。 参考文献 大田南畝 「一話一言」 「孝子万吉小伝」 |
戻る |