東海道の昔の話(90)
 二人の剣士 4   愛知厚顔   2004/6/25 投稿
 
 江戸へ戻った八郎は九月になると江戸城に召しだされた。
そして正式に
 『九月十日をもって奥詰を命ず』
すなわち将軍の親衛隊に任命された。石高は三百俵十人扶持、これは百二十石に相当するかなりの高給取りである。
慶応元年(1865)、八郎は二十二歳になっていた。この年の五月に第二次長州征伐戦争が始まった。このため再度京都に向かう将軍家茂のお供として、伊庭八郎も同行して再度上京していった。
しかしこの戦争は幕府軍に戦意がなく、そのうえ最新鋭の鉄砲で武装し、農民や商人まで含む大衆を動かし、民衆の総力を組織した長州の勝利で終わる。
 その苦戦の中で第十四代将軍家茂が大阪城で他界した。
まだ二十一歳の若さであった。
 
 亀山藩では藩主の石川総修が五月六日江戸藩邸で天然痘にかかり亡くなっている。その後を実弟の石川成之が引き継いだ。
 十一月に入ると幕府はそれまでの講武所を改変し、新たに遊撃隊を組織した。養父の伊庭秀俊がこの遊撃隊頭取に任ぜられるとともに、八郎もこれに所属することになった。
 十二月には第十五代将軍に徳川慶喜が就任した。ところが二十五日には幕府に比較的好意的だった孝明天皇が崩御される。
 そして慶応三年十月十四日、将軍慶喜は大政奉還を発表し王政復古の大号令がかかった。三百年を経た徳川政権の終焉であった。

 伊庭八郎は二十四歳。彼の所属する遊撃隊の隊長頭並は今堀越前守。幕府は大政奉還後の京都情勢に対処するため、今堀と遊撃隊に上京の命を下した。三百十二名の隊士は江戸を出て上京していく。八郎は三度目の京都行きであった。
十二月十二日には将軍を護衛して大阪へいったが、八郎ら半数の隊士は新選組や会津藩士らと京都伏見に布陣した。
 そして戊辰の年(1868)を迎えた。
 一月三日、鳥羽伏見で薩摩長州の新政府軍と会津桑名を主力とする旧幕府軍が衝突した。八郎は鳥羽の赤池関門付近にあったが、飛来した砲弾の破片が甲冑を貫いて胸に当たった。さらに戦闘中に突然大量の血を吐いて倒れ、大阪へ運ばれていった。彼の所属した遊撃隊も夜には中書島へ退却した。翌日には旧幕府軍の敗戦が確実になる。総崩れになった彼らは大阪城で決戦をしようとした。しかし頼みの将軍慶喜は部下たちを置き去りにし、ひそかに船に乗って江戸に去ってしまった。これでは止むをえない、八郎たち遊撃隊も幕府軍艦に乗って江戸へむかったのである。
 
 二月十二日、慶喜は朝廷に恭順の意を表明。江戸城を出て上野寛永寺に入った。遊撃隊はここでも慶喜の護衛にあたる。
 四月に入ると江戸城が無血開場された。それに従うのを拒否する榎本武揚が幕府艦隊を率いて脱走した。
 伊庭八郎も人見勝太郎らの同志と一緒に、この艦に身を投じたのだった。榎本らは房総に上陸したのち、ここで旧幕府に味方する同志を募った。
 その後、八郎は榎本といったん別行動をとる。小田原藩や伊豆韮山の代官に支援を求めたが成功せず、御殿場から沼津に出た。
この間に幕府側から続々と遊撃隊に加わる人があり、沼津では二百七十五名になった。そこで遊撃隊を五つの隊に編成し、伊庭八郎は第二軍の隊長に選出された。

 五月十七日になると、二日前に上野で彰義隊と新政府軍との戦争が始まったという知らせがあった。それを聞いて八郎は恭順か戦争か態度のはっきりしない小田原藩に出向き、家老たちを
一喝
 『反復再三、卑怯千万、堂々たる十二万石中、
   また一人の男児無きか!』
彼らから武器、弾薬、軍資金壱千五百両をせしめたという。
 このあと小田原藩は新政府側についたため、遊撃隊は箱根湯本に去り砲台を築いて合戦の準備に入る。
 五月二十六日、箱根戦争が始まった。長州、因州、岡山、津などの藩兵からなる官軍が、抜刀して総攻撃をかけてくる。奮戦空しく重傷を負った八郎だが、傷ついた片手で三人を斬ったとか、このときの奮戦模様はのちに錦絵に描かれている。
片腕の美剣士と言われる伝説はこのとき生まれた。
 敗戦でがっくりした八郎だが、再び気を取り直し英艦に便乗して北に向かった。

 そして函館五稜郭で榎本武揚たちと、最後の函館戦争を戦うことになる。はじめは榎本軍が優勢だったが、新政府の大軍が上陸してくると形勢は逆転する。
 各地の激戦で犠牲者や行方不明、脱走が続出し、遊撃隊はとうとう五十数名に減ってしまった。
 『とうとうこの地で最後を迎えるのか…』
伊庭八郎は万感の思いを込めて挽歌を詠む。
 
   まてよ君 冥土も共と思いしに
       しばし遅るる身こそ悲しき

 このあと八郎は胸に被弾し再起不能となり函館病院に移されたが、
 『五稜郭へ棄ててくれ』
との悲痛な願いを入れ、止むをえず五稜郭に運ばれた。傷口は腐敗していたが一度も苦痛を訴えなかったという。そして
榎本武揚が
 『我われも直ぐ後から行くから、君は一足先に行ってくれ』
と云って毒薬入りの茶碗を渡すと、にっこりと笑ってきれいに飲み干し、眠るように息を引き取ったそうである。
 命日は五月十二日、享年二十六歳の若さであった。
 このあと榎本武揚は降伏し五月十八日、五稜郭開城。
ここに函館戦争は終りを告げた。

 五稜郭の戦いで伊庭八郎が死んだという知らせが、亀山の山崎雪柳軒にも届いたのは六月に入ってからだった。彼はそれを聞くと
 『…』
ただ無言のまま北の方を眺めていたという。
 幕末維新の烈風は亀山藩も揺るがした。
 山崎雪柳軒の道場で剣の技を磨いていた多数の藩士たちも、江戸や京都あるいは大阪橋本駅などに派遣されていた。いまや剣術修行どころではなくなった。各藩は競って西洋式の兵式改革を急いで取り入れていく。
 戊辰の年の前後には亀山藩内も尊攘派と佐幕派の抗争があったが、大きな犠牲を払うことなく、明治を迎えることができた。
 
 明治三年、すでに亀山藩は亀山県になっており、旧藩主の石川成之が知事になり、大参事に近藤鐸山、権大参事には山崎門下の堀池鴎舟らが任命されていた。そしてとくに知事の希望もあり、亀山城内に幅五間、長さ五十間の大道場が設けらた。
そして武芸局が創立された。山崎雪柳軒はその武芸教授、門人の小寺直樹が助教授として指導に当たった。
 やがて廃藩置県が徹底してくると、多くの武士が職を失い生活が困窮してくる。いまや日本古来の剣術など修行どころでなない。
山崎は私財を投げ打って、困った門人たちの就職や自立を助けた。
さらに亀山演武場の維持や運営のため、あるいは流儀を守るために、門人たちの有志と新たに赤心社を立ち上げた。
赤心とは赤き心であり、「赤き」すなわち「明き」をあらわし真心を意味する。
 昭和五十八年には心形刀流保存会赤心会として名称を保存し現在に至る。

 明治十八年、山崎雪柳軒は五十八才になっていた。
彼は再び発起して剣術修行の道を歩む。若き日に伊庭八郎と試合した山岡鉄舟(鉄太郎)の春風館道場。あるいは警視庁道場を訪問し、研鑽に努めた。
 そして明治二十五年に自分の道場を市川権平に譲り隠居した。
 明治二十六年九月五日、山崎雪柳軒は亀山演武場にて割腹自殺した。享年六十六歳、墓は亀山宗英寺にある。
亀山演武場 山崎雪柳軒顕彰碑

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参考文献  童門冬二「伊庭八郎とその時代〕
      関東心形刀流会「心形刀流」
      司馬遼太郎「燃えよ剣」   

 
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