東海道の昔の話(93)
  かわひたり餅  1      愛知厚顔  2004/7/4 投稿
 


 『蟄居謹慎を命ず』
大垣藩五万石城主、石川主殿頭忠総のもとに使者がやってきて、徳川将軍家の命を伝えたのは慶長十九年(1614)の春だった。
 それをみても忠総はさほど驚かなかった。それはかねて将軍家の側近として、実力を発揮していた実父の小田原六万石城主、大久保忠隣から、それとなく聞いていたことでもあった。
その理由は、この父の忠隣が将軍家の許可なしに婚姻をとり行ったこと。それと大久保長安の事件であった。

とくに大久保長安の不祥は大きなダメージとなった。
大久保長安は父忠隣の部下だったが、大久保の姓を名乗ることを許され、石見、佐渡、伊豆の金山奉行をしていた。
 この在勤中に不正に金銀の横領を行い、私的に蓄財をしていたという。もっとも長安本人は前年に死亡していたが、徳川家康に訴ったえる者がいて、調査をしたところ不正の事実が発覚した。そして遺族や関係者全員が処罰されたのである。
父の小田原城主、大久保忠隣も監督責任が重大であるとされ、改易すなわち領地没収のうえ近江へ追放されたのである。
しかしこれは徳川側近のもう一方の実力者、本多正信の策略だったという風説もあった。
 「本多正信、あやつの仕組んだ陰謀だ。」
実父もこの政敵とことあるごとに対立し、彼との確執をわが子の忠総に洩らしていた。
 しかし長安事件では続々と不正蓄財の証拠が見つかり、決定的な汚点となってしまった。

石川主殿頭忠総は実父の改易追放を知った。この時代、不始末を仕出かしたとき、その処罰は一族はもちろん親戚郎党にまで及ぶのが常である。彼は大垣の石川家に養子に入った身とはいえ、実父の次男である自分の処罰も軽くはないと覚悟していが、予想に反して謹慎蟄居で終わった。それは彼がすでに本家を離れて他家に養子に入っていたことで、直接の責任は問わないと言うことだった。しかし忠総は十五歳のときから徳川秀忠の側近として、可愛いがられた身である。
  「これは秀忠公の温情だな…」
と感じていた。だが実父の改易追放はまことに不名誉な事である。
  「なんとか汚名をそそぎたい」
家臣一同が願っていた。ことに大久保家から引き連れてきた近藤杢右衛門、半田忠兵衛、などの子飼いの部下たちは、断腸のやるせない思いでいっぱいだった。

ところがその機会がすぐやってきた。
豊臣秀頼が方広寺に寄進した梵鐘の銘に家康側が難癖を付け、これがきっかけとなりこの年の冬に合戦が始まった。
 大阪冬の陣である。
 謹慎中だった石川主殿頭忠総にも出陣の命がくだる。
このとき大阪城は天下に知られた堅城である。幾重にも深い堀をめぐらせ守り易く攻め難い。さらに城の西には淀川下流の深い湿地帯が広がっていた。

 この湿地帯は〔博労ケ淵〕と呼ばれ、豊臣側はこの付近の穢多崎砦を明石全延を守将に八百人、嶋野砦に井上頼次二千人、今福砦は井上正倫二千人などが徳川方を阻んでいた。
徳川軍はこれらの砦を攻撃しようとするが、その前面にあの博労ケ淵が阻んでいる。
 『これはまさに天然の要害だな…』
布陣した石川主殿頭忠総、松平下総守忠明、西尾豊後守忠政ら布陣した武将たちは、それを見て容易ならざる苦戦を覚悟した。
 ときは旧暦十一月二十六日、まさに真冬の真っ只中である。
すでに水面は薄い氷が張っており、兵たちはそれをバリバリと踏み割って入る。冷たい水は草鞋や脛当てを浸して腰まである。その寒気は兵たちの身体に激痛を与えていた。
 またこの淵にはところどころに砂州があり、潮の満ち干にしたがって姿を表したり没したりしている。その州は葦草が生えており、敵兵はそれに隠れて銃を間断なく撃ってくる。

徳川方はこれを排除しようと攻撃をかけるが、いずれも犠牲ばかりが多くて占拠できないでいた。
家康はこの戦況を知り側近の本多正純、永井直勝らにこの状況を調べさせた。その結果
 『干潮のときに一気に攻めれば勝利する』
との結論に達した。しかし水面を亘る舟がまったく無い。真正面から全身を敵に晒して攻撃するしかない。守る方は葦に隠れて少ない人数ですむが、攻撃する側は銃の標的となり、相当の犠牲を覚悟しなくてはならない。この困難な作戦を誰にやらせるのか…、左右の武将たちを見回して
  『主殿頭どのは如何?』
家康は石川主殿頭忠総を見つけると、やってみるか?と聞いたのである。謹慎中のこの身に重要な作戦の先陣を頂戴できる。この光栄に忠総は感激した。
  『ぜひ手前どもに先陣を!』
石川忠総はただちに攻撃令を拝命すると、手勢を整えて攻撃にかかった。
当時の大阪城周辺 上が西方       
               〔続く〕
          

 
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