東海道の昔の話(96)
   和算の先生 2   愛知厚顔  2004/7/8 投稿
 


堀池敬久は生徒に
 『ではそろそろ円の問題に入ろうか、
  図のように直角三角形の辺の長さをa、b、c
  とし、内接円の半径をrとしたときの関係式
  を求む』
〔図〕
                    

これは「勾股中円」と呼ばれる平面幾何の問題であり、最初は
「古今算法記」(1671)という書に出題されたもの、これを現代の表現で聞いたのだが、すぐにかなりの熟生が手を挙げた。
  『ほほう…、かなり判ってきているなあ。
   では章介、答えてみよ。』
指されて章介は
  『それはこうなります。
    axbx2÷(a+b+c)=2r 』
現代の表現に直すと、このような内容となる解答をだした。
  『御明算』
敬久は満足して褒めたのである。

このころ、和算の数学者は関流とか最上流、あるいは西国流など、師からの教えをそれぞれの流儀とし、弟子たちにまた自分の工夫を加えて伝えていた。また数学の問題を考えては
  『どうだ、この問題は貴殿には解けないだろう』
と挑戦する。挑まれた方も何とか必死に解答を考えることになり、数学のレベルも上がる効果もあった。そしてこの和算の他の流儀道場を訪問しては数学の難問を相手にぶっつけ
  『さてこの問題の答えは如何?』
と、試合を仕掛ける。もっともどの流派も内容、レベルはほとんど同じだったといわれる。

ある日、堀池敬久が午前中の授業を終え、隣の間で食事をしていると、
 『ごめん!衡山先生に一問お教え願いたい。』
玄関先に訪れた一人の男が、怒鳴るように案内を請うている。
衡山とは堀池敬久の号名である。門人の原正立が応対してみると
  『私は一片舎南瞭と申す江戸者です。かの地では
   建部流算術を少々学びました。いま京大阪へ
   旅行の途中ですが、亀山に高名な堀池衡山先生
   がおられるのを思い出し、日ごろから判らないこの
   問題をご教示願いたいのです。うイ〜ッ』
原はさては道場破りか…とピンと察したので
  『衡山先生はいま食事をしておられるますから、
   こちらで少々お待ちを…』
と控えに通した。どうやらこの客はかなり酒をやって出来上がっているらしい。顔は真っ赤でロレつもはっきりしない。
敬久は昼飯を食べかけたばかり、途中で止めるわけにいかない。
米飯をゆっくり噛んでいると、客のいらいらした声が聞こえる。
  『教えてほしい問題はこれですよ。
   今ここに円画が有、類円に狭円を与う、大円の
   径は一百二十一寸八分、末円の径は壱分なり、それ
   に従う初円に至る末円の総合計は如何?うイ〜ッ』
  「客の名は一片舎とか云ったなあ、ひよっとすると
   一九の弟子じゃないか?彼もかなり算術をやった
   と聞いてたが」
箸を使いながら敬久は思い当たった。一九とは江戸時代の
十返舎一九のことであり、超ベストセラーのユーモア小説
「東海道中膝栗毛」の著者である。

敬久はゆっくりと箸で茶碗の米粒を拾い、飯台の上に並べはじめた。また竹輪などのおかずを千切ってそれに添えている。  客は問題の答えは知っているから、あとは相手がどういうテクニックで答えを出してくるのか、面白く眺めて遊ぶだけである。しかしいっこうに相手が現れない。少しイライラしてきた。
酒もそうとう入っていることでもある。
遠慮はいらぬ
  『衡山先生!、聞こえているのでしょう。
   この問題、早く教えてくださいよ!』
がんがん響く大声である。そのとき
  『一片舎先生、こちらへどうぞ』
と声がかかった。南瞭が部屋に入っていくと、敬久が食べ終わったばかりの茶碗と箸を片付けながら
  『さきほどの問題の答えはこれです。』
指した飯台の上には、米粒とおかずの切れ端が整然と並べられている。それは問題の解答を表した数学記号だった。それをひと目みた一片舎南瞭は
  『衡山先生、恐れ入りました!』
と深々と頭を下げたのであった。

和算を楽しむ人々はまた算額を奉納していた。
算額とは数学の問題とその解答を記載した絵馬である。たいていの場合は神社に奉納された。この奉納は自らの数学に対する精進の成果を証明する作品展示会でもあった。
額の表は問題、答、術、それに願主名が描かれ、また必要に応じて図形も描かれる。ここで云う答とは最終的に得られた数値であり、術とはその値を得た計算式である。ところがその術を読むだけではどうして計算式が得られるかは、直ぐに解らないようになっていた。
それを知るには数学の道場に入門して先生に教えを学ぶか、解説本を精読するかのどちらかであった。
日本各地の和算愛好家たちは競って算額を奉納していたのだ。

  『よし、私たちも算額を奉納しよう』
堀池敬久、堀池久道の親子の道場も、この算額奉納を志す。
彼の奉納した算額はかなりの数に上がったと文献にあるが、
その後散逸してしまい、いまは発見されていない。
文献では
鈴鹿明神社 鈴鹿市 堀池敬久     享和元年
観音寺   津市  原正敬(門人)  文化五年
鈴鹿権現社 鈴鹿市 堀池敬久     文化八年
関地蔵院  関町  堀池正敬(“)  文政四年
加佐登神社 鈴鹿市 堀池敬久、久道  文政五年
椿大神社  鈴鹿市    〃     文政七年
椿大神社  鈴鹿市    〃     天保二年
地蔵堂   鈴鹿市    〃     天保五年
椿大神社  鈴鹿市    〃     天保六年
石薬師堂  鈴鹿市    〃     天保七年
椿大神社  鈴鹿市    〃     天保七年
閻魔堂   場所不明   〃     天保七年
加佐登神社 鈴鹿市    〃     天保七年
椿大神社  鈴鹿市    〃      〃 十二月

 現在発見されている算額は関東東北地方が圧倒的に多い。
もっとも多いのが福島県で百三、岩手九十三、埼玉九十一などだが、関孝和が群馬出身なので埼玉は江戸への街道筋にあたるためらしい。三重県では関町の地蔵院に村田佐七(?)が天保
十三年(1842)に奉納したものを含め、十三面の存在が確認されている。

江戸時代、わが国独自に発達した数学の和算、その当時は世界最高の水準だった。それを支えたのはこれも世界トップレベルの教育機関の存在があった。十八世紀から十九世紀の百年間
に全国に存在した寺子屋数は約七千、どんな辺鄙な山奥の農民でも読み書きソロバンが出来た。また公立学校とも目される藩校は約六百校もあり、そこでは漢字、習字、皇学、を教えていたが、とくに数学専門校は八十余もあった。
こんな環境で発達した和算がどうして消えたのか…、それは
何と言っても鎖国政策が原因である。外国との交流が絶たれた環境では、自由に学問を学びあい競いあうことはできない。
さらに和算学者は趣味としてたしなみ、独特に発達させた人が多かった。その表れが流派による免許制度であった。いうなれば発展を阻害する閉鎖的な雰囲気も多少はあったのだろう。
また明治政府が学校の数学教育に、和算から西洋の数学を取り入れるよう方針を転換したこと。これが今日に至る和算のもっとも大きな衰退の原因となっている。
しかしこの洋算もたちまちの間に普及し、完全に世界のレベルまで会得できたのも、長い間に培われた和算の下地があったからこそ可能だったといわれる。

堀池敬久。天保十二年八月二十四日死す。
亀山における非凡の数学者、敬久(周空)は堀池潜龍(久道)
の父にして、天文暦数の学を究め著書多かりし。しかるにその
多くは散逸して所在を失わせるは惜しむべし。
 亀山の郷土史に記された記事である。
門人、原正立は碑文を撰び息子の堀池久道が本久寺に石碑を建立した。
 墓は野村町の慈恩寺にある。

 堀池父子の著書もかなり散逸してしまったが、幸いにも
主要な「要妙算法」などは亀山歴史博物館に所蔵されている。
                    〔終り〕

参考文献  仲田紀夫「東海道五十三次で数学しよう」
      「四日市史」 竹内均「塵劫記を読む」

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