宿場の賑わい復活プロジェクト

〜まずは屋号から〜

 

「亀山」は東海道からうまれた・・・

亀山市は、江戸時代の城下町や東海道46番目の宿場町を核に発展したまちです。このほかにも亀山は鉄道のまちであり、坂の多い町などさまざまな表現はできます。しかし、「亀山」は今から500年ほど前に、東海道に沿って商人や宿などが集まってまちが生まれ、その後の宿場町・城下町へ、そして現在の亀山市へと発展したのです。また、東海道の沿道はもちろんのこと、これ以外の周辺地区も東海道と歩調を合わせ、東海道を軸とした道路網によってそれぞれが発展してきました。まさに、「東海道」が通っていたからこそ、現在のまちの姿があるといってよいでしょう。

 

最近、町がかわりましたなぁ・・・

そんな亀山の姿が近年急速に変わりつつあります。古い建物や路地が消え、いつのまにか駐車場や規格化された建築に変わっています。いたしかたがないこととはいえ、このままでは、亀山が何の個性もない、他の町といっしょのただ人が住んでいるだけの場所になってしまう・・・・

日本でたった53ヶ所しかない東海道の宿場のひとつである亀山の町の姿がこれではあまりにもさびしすぎます。

 

何とかしましょに・・・

きらめき亀山(かめさん) 町並み保存(仮称)分科会では、亀山の歴史的な町のたたずまいを活かして、「亀山らしい」「暮らしがいのある」・・・・そんな町を作ってゆくために、みんなが知恵を出し会って活動をはじめようと考えています。

わたしたちは、今の亀山は、かつて東海道の宿場として道沿いに家が建ち並び、多くの人々が行き交った賑わいの記憶が失われているのではないかと感じています。そこで、「自分たちは東海道のまちに住んでいるんだ」「亀山はこんなええとこやったんや」といったことを、もう一度みんなが気づくことが大事ではないかと考えました。

 

お願いしたいこと・・・・

そこで、かつての宿場の賑わいを、市民の手で復活させるプロジェクトを立ち上げよやないか、その第一歩として、町がにぎわった時代の亀山の人々がごく当たり前に使っていた横町や万町などの「町の名前」と、それぞれの家の屋号をよみがえらせたらどうかと考えました。そこで、露心庵跡(ろしんあんあと)(本町)から京口(きょうぐち)門跡(もんあと)(市ヶ坂町)の亀山宿東海道筋にお住みのみなさんにお願いして、かつての町の名前と屋号を記した木札を宿場の中に掲げたいと思います。

 

東海道亀山宿屋号木札

    江戸時代から現在までの長い歴史の中で、時代ごとにさまざまな屋号があります。宿場内での統一性を図るため、木札の屋号は、「宿場」としてにぎわっていた江戸時代末の文久3年(1863)の亀山宿の状況を記した『宿内軒別書上帳(しゅくないのきべつかきあげちょう)』(伊勢国鈴鹿郡東海道亀山宿・亀山市歴史博物館蔵)を使います。

    個々のお宅の屋号確認は行っていませんので、場合によっては現在の地名・屋号やかつての屋号などご存じのものとずれが生じているお宅があります。これは、文久以降の百年ほどの間に住んで見える方の異動などによって生じたものです。このため、東海道筋の何カ所かに、今回の趣旨と木札の屋号が文久3年のものであることを明記した別の看板を掲げます。

    「屋号木札掲示」への皆様のご理解・ご協力を得て、原則としてすべての町屋の屋号を掲げたいと考えています。どうぞよろしくお願い申し上げます。

    現在地との対比は、記録による間口と明治初期の地籍図などから割り戻して行っています。

    残念ながら純然たる屋号と、職種による呼び名とを区別ができません。また、かつてそれぞれのお家がどのようなお仕事をしていたかは今のところわかっていません。これをみんなで掘り起こしてゆくのも、宿場の賑わい復活プロジェクトの一環と考えています。

 

  屋号木札準備・掲示は分科会が行います。このため、費用負担は一切ありません。ご協力をお願いします。

なお、木札の板材は市民有志からの提供を受けたものです。

 

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きらめき亀山21   町並み保存分科会

リーダー  中浦豊子