東海道の昔の話(104)
    西村謹吾の生涯 4  愛知厚顔  2004/7/25 投稿
 

私は紀州の九鬼港で浪士組、後の赤報隊と離れることになりました。相楽総三や西村謹吾さんとも、このときが今生の別れになってしまいました。
 この後の相楽総三や西村謹吾さんの行動は、御一新のあと赤報隊の生き残りの方々から聞いたものです。
 私は三人の同志と上陸し、伊勢大和を経てあくる年の正月二日の夕方、山城国長池駅に到着しました。
 相楽総三を総裁とする浪士組の主力は、紀州藩の追っ手に襲撃されることもなく、九鬼港を出発してから兵庫の港まで幕府軍艦、開陽丸に追われたり、紀州沖で薩摩船と幕府軍艦との戦に巻き込まれましたが、どうにか無事航行できました。
この中に西村謹吾さんの姿もありました。

 さて大阪城にいた徳川慶喜は尾張、越前、土佐の諸候の周旋の功により、官位を朝廷に返上する決心をしておりました。
越前藩主の松平春嶽候がその書を携え、十二月末日に京都御所に参内して提出し、将軍慶喜もまたついで入朝することを奏上し、朝廷もそれを許されたのです。そして慶喜に何かある官職の身分を与え、朝議にあずからせようとの内議も得ておりました。
 ところが江戸における薩摩邸の浪士との衝突合戦の情報が伝わると、慶喜は大いに怒り
  『今日までは平和を望み、上は朝命を奉じ、下は
   蒼生の苦を思い、ひたすら恭順を旨としてきたが、
   こんな有様では薩摩とは仲良くできぬ。兵を進軍
   させよ。』
と大目付の滝川播磨守に命じ、薩摩を討つ密命を出したのです。
ときに戊辰の年正月二日(1868)のこと、すなわち私が長池駅に到着したその日でした。
 宇治の山からの風は大変寒く、麓あたりで日が暮れます。
真っ暗な道を歩き川に落ちること十二回に及びました。ついに道に迷っているうちに、たちまち伏見の方向で火の手がニケ所に起こりました。みるみるうちに火が広がり一面の火の海です。
続いて
  『ドーン、ドーン』
大砲の音、わあわあと吶喊の声、まさに薩長と幕府側と鳥羽伏見の戦いが始まったのでした。私たちはそれをみて心が高鳴り
  『愉快、愉快!』
と喜びあいました。足の疲れも忘れるうち夕方近くに京都祇園町に着きました。はじめて我れにかえってみれば袖も裾も凍りつき、バリバリとまるで板のようでした。
 あくる日、竹田街道で旧知の薩摩藩士に逢い、
  『喜ばれよ官軍は全勝なり』
と聞き、安心して引き返したのです。

一方、相楽総三率いる浪士組の主力は戊辰の年の正月三日に兵庫港に無事到着し上陸しました。彼らはただちに出発して五日には京都に入ります。
 この日、綾小路俊実、滋井公寿の二卿は、朝廷より東山道鎮撫使の命を奉じて出軍されました。相楽総三はそれを知ると、その先鋒を請い願ったのですが、許されません。そこで彼は夜中に比叡山を横断して近江に出、東山道総督の先廻りをして一行に加わります。このとき参集する浪士は約八百名ほど。
そして近江松尾寺山で一番隊から三番隊になる遠征隊を編成します。一番隊は江戸三田の薩摩屋敷以来の同志が中心となり、隊長を相楽総三に選び、西村さんは監察の担当でした。
名付けて赤報隊と言います。あとで悲劇を引き起こすのはこの中の一番隊です。

 悲劇を起こした最大の理由は、旧幕藩住民に
  『御親政になれば租税を半減する』
という布告をしたことです。しかしこれも勝手にやったことでなく、事前に朝廷の許可を得ているのですが、この事の重大性を総督府、官軍が知るのは後になってからでした。 
 戊辰一月二十一日(1868)、東山道鎮撫使は京都を出て大津に着いたのですが、軍資金不足で三日間滞在です。主力の有栖川宮東征軍も大阪で停滞状態です。民間の三井から三千両借金して大津を出発したが、大垣に到着したときゼロで十日もまた滞在です。沿道から金銭、米穀を調達しようとしますが赤報隊の税半減免除の布告が邪魔して思うようにいきません。
困った官軍は赤報隊に
  『総督の本営に合流すべし』
と命じますが
  『旧幕府主力を討伐するため独自行動をとる。』
相楽総三は拒否しました。そして強盗不逞の輩との噂に乗らぬよう
  『酔狂、暴論、遊女屋通い、賭博、喧嘩の厳禁』
と隊の軍記を厳正にしました。

 二月六日に赤報隊数百人は信州下諏訪に到着。大砲六門鉄砲六十とその他の装備です。相楽や西村さんら幹部は亀屋本陣に泊まり、すぐ町に高札を出しました。その中に税の半減がうたっておりこれが後に問題になります。このときの幹部は
  総裁   相楽総三
  大監察  科野東一郎(斉藤兼助)
   監察  竹貫三郎 (菊池斎) 
       ほか二名
  監察使番 西村謹吾 (菅沼八郎、山本鼎)
       ほか四名
   使番  金田源一郎(宇佐美左五郎)
       ほか五名
です。
 東山道鎮撫総督は布告を近江その他の地方に発し
  『近日、官軍先鋒と称え、米金を押し借り、人馬賃の
   未払いの賊徒あり。見かけたら捕らえよ。手向かい
   あるときは討ち取るも可。』
と、赤報隊をニセ官軍賊徒と決め付ける布石が進みます。

 赤報隊の実際は挑発した金銭や米穀を自分たちで消費していないのです。いまに残る文書でも
  「東山道総督府本部殿
   小諸藩より小銃二十丁、米二百俵、松平家より米百俵、
   白布二百反、岩村田藩より米二百俵、遠山家より
   金五百両を受領。
        赤報隊   西村謹吾
              大木四郎 」
きちんと報告しているのです。しかし隊の中には悪い奴もいて勝手に商店に押し入り、金銭を盗った者もいます。これが悪評の原因にもなりました。

 二月七日になると、西村謹吾、大木四郎ら幹部五人は信州上田藩役人の出迎えをうけ、上田の町に入りました。五人は官軍先鋒響導隊一番組と名乗って布告を出します。例の税半減のものです。そしてすぐにつぎの中之条陣屋(埴科郡)に行きました。この宿場代官にも勤皇の誓約書を提出させます。
翌日、彼らは二手に分かれ西村謹吾と竹内某は、松代藩の真田家に勤皇誓約書の提出を求めにいきます。しかしニセ官軍の情報を知っていた真田家は拒否します。そこで西村さんらはいったん帰りました。
 もう一方の大木四郎、桜井常五郎、神道三郎は小諸藩一万五千石の重役に逢い
  『貴藩は勤皇か佐幕か?明らかにせよ』
と談判します。藩はさっそく重役会議を開き、米二百俵と金五百両を献納する申し出を受けます。これらはいずれも東山道総督に報告されました。
                  
 二月十五日、軽井沢から碓氷峠に西村謹吾、竹内健介、大木四郎らに率いられた先鋒隊十数人が登ってきました。すぐ後から大砲、鉄砲組など約七十名も続きます。しかし峠に集まっただけでこれを占領したわけではありません。彼らは上州側の各藩に勤皇誓約を迫ります。また安中藩が守っている横川の関所の明け渡しを求めます。この関所を占領しなければ軍事上の優位になりません。
 上州の各藩は驚きました。
  『そんなに早く官軍が碓氷峠まで来たのか』
高崎藩八万二千石は献納金を約束します。しかし実際に碓氷峠に集まった赤報隊は八十余人、とても本格的な戦はできません。
 そんなとこへ信州側の各藩へ、いよいよニセ官軍の情報がつぎつぎに入ります。これを知って小諸藩などは討伐隊三百人を差し向けることに決定します。赤報隊の三倍でした。

 そんな険悪な空気を知らない碓氷峠の赤報隊、彼らは横川の関所の無血占領の交渉を続けていました。だがやがて自分たちがニセ官軍と思われていると察します。西村謹吾は
  『いま我われは誤解されている。この際は下諏訪まで
   下って謹慎すべきである。』
と皆を説得にかかりました。しかし桜井常五郎らの強硬派が峠を下りるのに猛反対です。西村さんはなおも必死に説得したので、皆は二日後に峠を下りました。結局、峠には僅か三日間だけ留まったにすぎません。
 碓氷峠での論争が感情的にもつれたこともあり、西村、大木、さんらと桜井常五郎、中山仲らとは別れてしまいます。そして夜中に軽井沢の宿に入って泊まりました。
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