東海道の昔の話(105)
    西村謹吾の生涯 5  愛知厚顔  2004/7/25 投稿
 

ところがその夜明けに追分方面で戦闘になったのです。
小諸藩、上田藩、岩村田藩などの連合軍がニセ官軍を討伐しようと、追分宿にいた赤報隊の金原隊を襲撃したのでした。
この戦いで隊長、金原忠蔵が戦死し、残った四人がかろうじて脱出できました。
 雪がしきに降るなか戦闘の気配を感じた西村、大木さんたちは、軽井沢を出発して追分に近ずいたとき、追分から脱出してきた金原隊の四人と出会います。西村さんは
  『諸士は金原君の首を葬れ』
と指示し、自分らは追分宿に前進します。彼らが追分宿に近ずいたころ
  「また赤報隊が戻ってくる」
との情報を聞いて、小諸藩などの連合軍は雪の中を散り散りに逃げ出したしまい誰もいません。西村さんらは追分の大黒屋に入って本陣としました。赤報隊の報復を恐れた住人らに西村さんらは
  『我が隊に反抗しないなら放火報復はしない』
と約束します。赤報隊は大黒屋でこれからの方策を議論しました。
  『この宿場で謹慎すべきである。』
との意見が多かったのですが、西村さんは
  『いや、この追分で敵を待っている意味はない。
   それよりも一刻も早く下諏訪へ戻り、赤報本隊と
   合流すべきだ。』
と説得し、再び雪の中を出発していきました。その後ろには小諸藩などの三百人の追撃隊が追っていきます。

 追分宿から下諏訪へ向かった西村、大木らの隊も逃亡者、落伍者が相次ぎ雪にまぎれてそこかしこで姿を消し、約六Kmほどいった小田井宿に到着したときは二十人ほでした。
彼らを岩村田藩の家老が出迎え
  『ご存知と思うが、貴君らに総督府からニセ官軍に
   つき取り押さえよと通達がでている。追っ手の
   小諸藩も貴君らの引渡しを要求してくるだろうが、
   ここのところは我が岩村田藩が責任もって保護する
   ので安心されよ。』
と言います。西村、大木さんは
  『ご好意に感謝する。』
と礼を述べて好意にあまえたのです。彼らは総督府に長文の弁明嘆願書を提出しました。それには
 「私どもは三道の官軍の先鋒を司る者です。ニセ官軍
  として農商を動かした事実はありません。私どもは
  衣服も食糧も節約し、長途行軍しながら冗費を省き
  ました。同志百余人、妻子を捨て親戚を忘れ、国家
  のために尽くした赤心至忠の人々が、賊の汚名をきて
  冤罪に陥ることは悲嘆の限りです。」
しかしこの嘆願書は総督府にて握り潰されました。

 この頃、赤報隊の総裁、相楽総三はどうしていたのでしょうか…。彼は大垣の総督府で二月十八日から大いに論じ、釈明し陳情し、また頑張っったのです。しかし総督府の返事は
  『其の方ならびに同志らを薩摩藩の傘下にする。』
でした。相楽はこれを無視します。彼はその足で同志らが待つ下諏訪へ戻るのですが、総督府は内密に官軍に通達を出します。
  『相楽総三らを捕らえて取り調べよ。』
相楽総三はあまりにも剛直な人でした。彼と総督府、官軍との間が悪くなったのは、大垣での先鋒論争だったそうです。
薩摩軍は
  『先鋒は我らだ』
と主張し、相楽は
  『西国の士が何で関東の民情や地理が理解できる?』
と真正面からピシャリと沈黙させた。これが悪感情を残したのです。

 岩村田藩に拘束された十八名の同志のため、相楽はたびたび総督府に願い出ましたが、何の返事もありません。
さすがの彼も自分たちがどういう立場にいるのか解ってきます。
 岩倉総督らの官軍本部が下諏訪に入るという二月二十七日、赤報隊はそれまで本拠にしていた下諏訪から近くの村に移ります。このとき六十人ほどに減っていました。自分らの行方に暗雲が立ち込めているのを察し、脱走が相次いだ結果でした。
 西村、大木ら釈放嘆願も無視され、追っ手の小諸藩の討伐も許可にならない。相楽は八方塞がりにいらいらしてました。
ところが二月二十九日になって突然に西村、大木ら十八名が岩村田藩から釈放されたのです。どうやら総督府の圧力だったらしく、赤報隊の本部の同志は喜んで出迎えます。彼らの眼はくぼみ頬はこけ身体は痩せています。安全に保護するという岩村田藩での拘束の実情は、まことに非情なものでした。

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