東海道の昔の話(106)
    西村謹吾の生涯 6  愛知厚顔  2004/7/25 投稿
 

その日の夜、総督府から使者がきました。
そして一通の書状を相楽に渡しました。それには
  「軍議の評定があるから即刻出頭せよ」
とあります。彼は大木四郎を連れて下諏訪の総督府へ出頭すると、たちまち高手小手に縛り上げられ逮捕されたのです。
そしてミゾレの降りしきる中、つぎつぎに赤報隊の同志も呼び出されそのまま逮捕されてしまい、一人も釈放されませんでした。
 三月三日の朝。赤報隊の人々は寒いミゾレの中に縛られたままです。一度も吟味や取調べもありません。
  『どういう理由で捕らえたのだ!』
  『岩倉を出せ!』
口々に叫び、悲壮な混乱が渦を巻いています。そんなとき相楽さん西村さんは一言も発せず、泥の土の上にきちんと座り、眼を閉じたままだったといいます。
そして判決文がよみあげられました。
  「相楽総三
   右の者、御一新の時節に乗じ、勅命と偽り、官軍
   先鋒と唱え、総督府を欺き奉り、勝手に進退し、
   あまつさへ諸藩へ応接に及び、あるいは良民を
   動かし、莫大な金銭をむさぼり、種々悪行を働く、
   その罪は許し難し。これにより誅殺するものなり。」
もうひとつは幹部七名に対する宣告文です。
  「西村謹吾、大木四郎、竹貫三郎、金田源一郎
   小松三郎、渋谷総司、高山健彦、
    右の者、相楽総三に組し、勅命と偽り、強盗無頼
   の党を集め、官軍先鋒と唱え、総督府を欺き、
   勝手に進退し、あまつさへ諸藩へ応接し或いは良民
   を動かす。その罪許し難し…。よって誅殺とす。」

 八名は下諏訪の町外れにある張付田刑場まで引かれていきました。そしてつぎつぎに処刑されていったのです。そして首は晒されたのです。
 そのほか三浦弥太郎、信沢清紀、矢口一郎ら十四名の準幹部は鬢罪を言い渡され、また三十余人が追放処分になりました。 
 いま下諏訪にある魁塚は明治三年(1871)に地元の有志と私が建立したものです。

  しるしなく世にながらへ魁けし
      君に面なら今日にもあるかな   直亮

  思ふこと成るも難きも国の為
      尽す心は四方に聞えつ      島崎藤村

 直亮は私です。
 魁塚は下諏訪の町を旧本陣前で曲がり岡谷方面に歩くと、大辻通りの交差点があります。塚はそこから少し先にあります。
西村謹吾さんのお墓も隣に並んでいます。あの人は薩摩屋敷や祥鳳丸で私と話をしているとき、いつも亀山の故郷を恋しがっていました。
  『亀山は美しい素晴らしいところだ。』
西村さんの波乱の生涯で亀山はただ一つの心の救いだったに違いありません。亀山の人々にお願いです。どうかいつまでもこの人のことを忘れないでください。そして信州下諏訪の近くに旅行されたときは、魁塚に詣で野菊の花の一輪でも手向けてやってください。

 今日はわざわざ遠くまで来て頂き、この老人の話に耳を傾けてくださいました。私ももうあとそう長くはないと思いますが、これまでの胸のつかえがとれました。安心してあの世で待つ昔の同志に逢えます。
 亀山の皆様によろしくお伝えください。
  では失礼します。 

 ◎これは東京の近郊に隠居していた浪士組の生き残り、  落合直亮という人を明治の末に訪問したときの話です。
  彼は赤報隊に参加することなく、岩倉具視の推薦で信州  岩村田の大参事に任命され、このとき彼は下諏訪に魁塚を建立しました。
   相楽総三、西村謹吾らの汚名が晴れたのは昭和三年  十一月十日。相楽に正五位が西村謹吾には従五位が贈られました。
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参考文献  長谷川伸「相楽総三とその同志たち」
      落合直文「しら雪物語」  

 
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