英一蝶の句について
英一蝶の友人に俳人、宝井基角がいました。一蝶は画を基角に伝授し彼も俳句を基角から習い、号を暁雲を名乗っていましす。あるとき二人は深川の芭蕉庵を訪問した帰り、もう日が暮れかかっているとき、ふっと見ると道ばたで桶屋が桶のタガを掛けをしています。それを見て一蝶はとっさに句が口をついて出たのです。
たがかけのたがたがかけて帰るらん (一蝶)
身をうすのめと思ひきる世に (基角)
この句は英一蝶が亨保5年(1721)69才のときの画「北窓翁賛画」に書き込まれているものです。一蝶は幕府や世間を恐れず、権力に対し風刺画や豪商らと華美な遊蕩の罪を問われたびたび投獄されました。三度目は1698年に三宅島へ流罪になり、11年後の1709年に綱吉の将軍就任にともない大赦されて江戸に戻ります。すでに58才になっていました。
帰ってみると、昔の遊蕩仲間の大半は物故し、豪商の紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門なども磊落しています。親友の基角も没していました。いまの一蝶は深川の長堀町に侘び住まいし、一心に画を描いているだけの日々です。江戸へ帰ってからもう11年も経過していました。
一蝶はかっての昔に基角と二人が誘いあい、深川の芭蕉庵を訪問したことを思い出しました。芭蕉は元禄7年(1694)旅先の大阪ですでに没していますが、二人が訪問したときは、芭蕉は晩年で相当弱っていたけど健在だったようです。
夕方まで庵で遊んだ後、その帰り道の途中、ふっと見ると桶屋が桶にタガを掛けているところでした。桶はサワラの木の板材を多数組み合わせて作ります。それをタガと呼ばれる竹製の輪で外側から締め付けて完成させます。このタガがゆるむと桶の板はバラバラになってしまいます。一蝶はこのサワラ材の一枚一枚を、遊蕩仲間や弱った芭蕉に見立てたのでしょう。
タガが外れてバラバラになった昔の仲間たち、いま自分と基角だけがいる…。
一蝶は寂寞とした心境になり、とっさに口をついて句が出ました。
たが(タガ)かけ(掛け)の、たが(誰か)たが(タガ)かけて帰るらん
タガが緩むと板もバラバラになる。いま一人二人と欠けてしまった友人仲間、できるなら誰かタガを掛け直し、もう一度過ぎ去った昔に帰りたいものだ。
この句を引き取って基角はすぐ詠みました。
身を(自分の身)うすのめ(薄幸)と思ひきる世に
これまでの自分の人生は波乱に満ち、薄幸だったかも知れないけれど、世間ではいくらもあること、これも運命だと諦めて思い切ることだ。
さすが基角は人生の先輩でした。恐らく二人のこの句が生まれたのは、遊蕩三昧のピークの日々が過ぎ去ったころ、三度目の逮捕で三宅島へ遠島される直前あたりと思われます。「北窓翁賛画」は69才で描かれてますから、かなり約20年も前のことだと思います。
この俳画「北窓翁賛画」は現在の所在を調べましたが不明でした。
ところが、江戸時代の文化人、太田蜀山人(南畝)が安永8年に表したエッセイ集
「一話一言」の巻四につぎの記事があります。
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英一蝶の発句、「北窓翁の発句」の項目に
『北窓翁一蝶のかけるものとて人の写し置きしをみるに、
近會螺舎基角とともに、深川なる芭蕉庵に遊ぶ夕にかへる途中の吟
たがかけてたがたがかけてかへるらん
螺舎此句にはずんで
身をうすのめと思ひきる世に
◎下記は英一蝶自筆のコメント書き込み。
「蛍星うつりかはり、芭蕉庵もやぶれ螺舎もくだけたるに、われのみのこる
深川の、今日思へばはからざる世や」
◎下記は太田南畝の書き込みコメント。
「一蝶は永代橋のワキ深川長堀町に住セシト」
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私自身はこの俳句の意味は、英一蝶が自筆で書き込んだこのコメントを読んで、
ようやく納得した次第です。一蝶69才のころの芭蕉庵は、松平遠江守の江戸屋敷内と持ち主も変わり、単なるあばら屋となっていました。
螺舎(基角)の骨もすでに砕け、いまは自分だけが深川で生き残る、思えば実にはかない人生だった。一蝶の正直な心境だと思います。
太田南畝の「一話一言」では自分は原画を直接見てないと云っています。
某氏所蔵の画を書き写したとありますから、この時代にすでに原画は個人の所蔵になっていたようです。現在も所在不明と思われます。
参考文献 太田南畝「一話一言」
流されびと英一蝶 1
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