江戸から海上六十里、三宅島は東西二里南北四里の火山島である。
山は険阻で平地は少ない。浜辺は絶えず浪に洗われて岩石が累々とし、荒い磯ばかりである。
近年も雄山火山の爆発で全島民が避難した悲劇の島だ。
島には五つの集落があったが、英一蝶は阿古という集落に落ち着いた。島流しの生活は江戸の遊里生活と比べれば、実に侘しいものだった。
この島で一生を終えるかもしれない。暗澹たる気持ちである。
「この広漠とした環境は耐え難い。画材も少なく
持ってきた絵の具も乏しい」
と江戸の友人に書き送っている。
一蝶はいつも北の江戸の方角を恋して机を置いた。そこで生まれたのが〔北窓翁〕の号名である。しかしこの島ではわりあい自由が保障された。
やがて絶望から立ち直る。彼は非常な努力を傾けて画を描きはじめた。
この流人生活の中でいまに残る傑作を残している。
〔四季日待図巻〕(出光美術館蔵)、
〔吉原風俗図巻〕(サントリー美術館蔵)など。いずれも島の境遇とはほど遠い。昔あそんだ情景を想像して描いた。しかし純粋な芸術的見地からも最高の作という。
江戸の俳人、宝井基角とのやりとりが知られている。
初鰹カラシが無くて涙かな 一蝶の贈句
そのカラシ効いて涙の鰹かな 基角の答句
まもなく島の娘トヨを愛するようになり、二人の男の子も生まれた。
名前を長八郎と百松という。島の人たちと交流が深まると、人々は彼に絵を描いて貰うようになった。いまも一蝶の画は御蔵島の神社に絵馬が二点、新島の梅田家に数点の画が残されている。
流人生活が十二年となった。
それは宝永六年(1709)八月二十一日だった。この日の朝、何気なく庭の草花を見入っていると、一匹の蝶が飛んできて止まった。
そのとき思いがけなく赦免の知らせがあった。
「これは夢ではないか…」
夢ではなかった。島で一生を終える覚悟だったのに…、どうしていまごろ赦免なのか、それはこの年の正月に死んだ前将軍綱吉の法要と、六代将軍の家宣の将軍位の賀に合わせ、特赦の令があったことによる。綱吉は六十才を過ぎても将軍の座にあったが、彼の死によって生類憐れみの令なども消滅した。家宣は将軍になる前はひそかに江戸市中を見てまわり、埋もれている人材を発掘した。
家宣を助けた学者に新井白石、間部詮房などがいる。後世の歴史家は家宣の治世を「正徳の治」と讃えている。江戸の空を覆っていた暗雲が、いっきょに晴れたような政道の世となった。
一蝶は妻を島に残し二人の子を連れて三宅島から江戸に戻った。
もう五十八才になっていた。彼は画号を英一蝶と変えた。それは島での吉兆を号にしたのであった。
十二年ぶりの江戸…。この間に江戸はすっかり変貌したいた。
豪商、紀之国屋文左衛門をはじめ、かっての遊興仲間はすっかり落ちぶれていた。親友の基角も二年前に亡くなっていた。なによりも豪放華麗な享楽の元禄はすっかり影を落としていた。
一蝶は宣雲寺という寺の離れを借りて住んだ。このとき宣雲寺の襖絵や掛け軸の多くを描いたが、後年の火災でほとんど失われている。やがて寺の前の家に引越し、つぎつぎに絵を描いていった。
一蝶はもはや若き日の遊蕩児には戻らなかった。
江戸に戻ってからの画名はますます評判となり、題材も文学、宗教、田園風景、山水などから得た。絵は高く売れていった。
後期の作品では〔雨宿図屏風〕(パークコレクション)、〔月次風俗図屏風〕(ボストン美術館蔵)など有名である。
彼の門からは一水、一舟、子蝉、佐嵩之らの秀才を輩出した。
また長男の長八郎は父と同じ絵の方に進み、長八一蝶とか島一蝶とも呼ばれる画人に成長した。次男は多賀源内と名乗る武士として幕府に仕えた。
英一蝶の命日は享保九年(1724)正月十三日、七十三才だった。
辞世の句
まぎらかす浮世のわざの色どりも
ありとや月の薄墨の空
彼の墓は東京都港区高輪の日蓮宗承教寺塔中顕乗院にある。
法名は英受院一蝶日意である。
一蝶は少年期を過ごした亀山にも深い愛着を持っていた。
亀山藩江戸屋敷に勤める藩士の依頼にも心よく応じ、いくつかの絵を描いたといわれる。大正年間の調査でも亀山の旧家には数多くの一蝶の絵が残っていたとある。また亀山市南野町の本久寺に半鐘を寄進したと彼自身が述べている。私(厚顔)はまだ見ていないが、もし亀山の方々でこの話に興味がある人は、ぜひ本久寺に詣でられ確認されることを期待したい。
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流されびと英一蝶 2
の関連(英一蝶と基角の俳句の意味)
参考文献 山東京伝「一蝶流滴考」、「民蝶半記小伝」
「続三重賢人伝」、杉本苑子「流されびと考」、
村松梢風「本朝画人伝」、
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