治承四年(1180)、源頼朝は挙兵するに際し最も山木判官を恐れていた。
「あ奴を真っ先に葬らねば危ない」
また頼朝は北条時政の娘の政子を愛していたが、政子は山本判官の許婚ということもあり、なんとしても山本判官を除く必要があった。そのため、ひそかに国府役人を味方につけ、北条時政が襲撃の策を練っていた。
治承四年八月十七日、三島神社の大祭の夜である。
頼朝は人々が祭りに出払い警備の手薄な山木判官の屋敷を襲撃した。月明の庭に一本の矢が放たれた。
『無念!』
はるばる伊勢国鈴鹿郡から来ていた山本判官の平兼隆に命中し討死した。
この頼朝の伊豆蜂起はいったん失敗したが、やがて北条氏の援助を得て兵力を増強し、東国の源氏をまとめて鎌倉に拠点を置くことに成功した。
末子の死を知った平信兼、
『この戦乱の世では何が起きても驚かぬ…』
保元ノ乱や平治ノ乱など、親子や血縁を敵味方にした戦を見てきた彼も、さすがに我が子の死を知って人前では強がったが、影では涙を流したと伝えられている。
「俺は俺さ…」
源頼朝の挙兵を知って木曾義仲も行動を起こした。
彼は治承四年九月七日に挙兵すると、わずかな兵力で緒戦に勝利する。そして寿永元年(1182)六月十一日には、千曲川河畔の横田河原で平家二万と義仲軍三千が対決、奇襲作戦で義仲軍が勝利。その勢いをもって北陸方面から京を目指す。
からくり峠での戦いでは松明の火を牛につけた夜襲を決行、平家の大軍を敗走させる。そして寿永二年(1183)七月二十五日には京都に入った。
これで平家軍は西国へ敗走し、平氏の一門は都落ちをしていった。この平氏一門都落ちの事態を知っても平信兼は動じなかった。
「俺は俺の行き方がある」
彼は悠然とつぶやき、昼生の館でいつもと同じような日々を送っていた。
また彼の官位も剥奪されることなくそのままであった。
この政治の混乱状態では、地方の行政に目をくばる余裕はなかったのであろう。
やがて平家の大軍を激破した源氏の軍を率いて源義経も京を目指す。一歩先んじて京都に入った木曾義仲の軍、はじめて見る都のきらびやかさに圧倒され、乱暴狼藉を繰り広げる。
都の人々は平氏の傲慢さに顔をしかめていたが、この義仲軍の粗暴さにも辟易してしまった。困った上皇はひそかに鎌倉の源頼朝に書を送り
「義仲を追討せよ」
と密命をくだす。そして源義経の軍と宇治川などで対戦し義仲は敗れてしまう。こうして義仲に代わって都に入った源義経。
そして鎌倉の頼朝は政治の権力を平氏からそっくり引き継ぐことになった。
その源氏から平信兼のところに命令書が届いた。
「ひき続きそのまま政務を担当すべし」
平家の都落ちに参加しなかったことが、源氏の心証を良くしたのかも知れない。信兼はこのときも
「そうか、俺は俺だ。頼朝の代官を引き受ける」
何のことはない。源氏は東国の武士たちを味方に集めたが、行政統治能力を備えた人材が足りないない。困って助けを求めてきたようだ。彼は源氏の内情を知ったうえで引き受けたのであった。
こうしているうち、源義経軍は一の谷合戦も奇襲作戦で勝利する。平氏は屋島、壇ノ浦と落ちていく。こうした激動のときも平信兼はただ静観しているだけであった。
源氏側から見れば
「平信兼は何のことある、飼い慣らされた羊なり」
かって京の町で悪名高い左大臣藤原頼長に矢を射たり、保元ノ乱での勇猛な戦いぶりを知る人々は、いまの平信兼の姿を見て驚くばかりであった。
「もはや信兼は平家一門ではない。
武士の魂を忘れた源氏の走狗だ。」
そんな嘲笑も聞こえてくる。そんな噂を聞いても彼は
「俺は俺だ。ほかの誰でもない。ただ俺の道を進むだけだ。」
中央の権力に従うように求める家臣や周囲。それにも耳を傾けようともせず、頑固に自分の主張を繰り返すだけであった。
源頼朝が平氏追討を進める中で最も危惧したのは、平氏の本拠伊賀・伊勢の動向である。元暦元年三月( )には、どこよりも早く伊賀の守護に股肱の大内惟義を任じ、伊勢へは大井兵衛次郎実春を差し向け、平氏残党の追捕を命じていた。
それほど平氏の残党対策をしていたところなのに反乱が起こった。
反乱を呼びかけたのは平信兼であった。
「いまこそ平氏の怨念を晴らそうぞ!」
この呼びかけに伊賀平田城主の平田上総介忠清は驚いた。
「あの源氏の走狗が蜂起したとは!」
それは敗れた平家一門を捕らえて晒し首にするなど、武門人の行動とも思えない常軌を逸した源氏の行いなどが、彼を憤激させたようであった。
信兼の蜂起主旨に賛同したのは、ほかに富田進士家資、前兵衝尉家能、家清入道、平田太郎家継らと信兼の三人の子息を加え、総勢二千人とも三千人ともいわれる兵力が集まった。
いずれも旧平氏に縁ある残党たちである。
戻る 〔続く〕
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