東海道の昔の話(123)
   平信兼の生き様     愛知厚顔  2004/10/13 投稿
 


 元暦元年七月七日、彼らは源氏側の伊賀守護職、大内惟義を攻めて敗走させた。その報が鎌倉に注進されると、源頼朝は大いに驚いた。
  『あれほど目にかけてやったのに
   叛くとは…、遠慮いらぬ直ちに蹴散らせ。』
 直ちに鎌倉から、加藤五景員父子、山内首藤経俊らが差し向けられた。十九日には近江国まで出陣していた伊賀・伊勢の反乱軍を撃破した。この戦で平信兼側の諸将は多く討たれ、子息の三人は忠清らと姿を消した。
 平信兼はひそかに戦線を脱出して伊勢へ戻っていった。
もはや絶望的な敗戦である。多くの部下を死なせたことに、彼は先の希望を失おうとしていた。しかしこのときも
  「俺は俺さ。いまからあそこで再起をはかるぞ」
と、気を取り直して南伊勢を目指していった。

 平信兼は叔父が多気郡庄田にいたこともあり、かつて信兼の末子兼隆(山木判官)に伊豆で仕えたという岡小次郎平在常が、平清盛より飯高郡谷野(旧川俣村谷野)の地を与えられ、そこに舘を築いて居住していた。
 それらの人々が要害の高城山に砦を築いて信兼を迎えた。
また西国に通ずる川俣街道は天然の要害をなしている。
 平信兼が人々の協力をえて砦の手入れをし補強をして待ち構えた。やがて圧倒的な源氏の大軍が砦を囲んだ。これを向かえ討つ信兼は郎党などを含めても百人余の劣勢。しかしその意気は高かった。彼らは
  『これが最期だ。怯むな!』
とばかり、甲冑を脱ぎ捨て諸肌になって楯の面に進み出、猛烈に矢を射かけて抵抗した。そのため源氏方に犠牲者が多くでた。
 しかしとうとう矢も尽きてしまった。
  『もはやこれまで…』
信兼は城に火をかけ、
  『ここが終焉の地か…、俺は俺。俺の人生に悔いはなかったな。』
こうして自らは自害して果てたのである。
 一代の俺流を貫いた武士、平信兼の壮烈な最期であった。
それは挙兵から二ヶ月後のことである。
 信兼の墓は飯南町有馬野字神原の浄源寺にある。
 
 この戦は源氏方の大勝だったが、源義経は平信兼追討の軍を催すとともに、後鳥羽天皇に奏上して信兼の官位をはく奪した。
 またその前夜、信兼の子息三人が京都に潜入しているのを見つけ、自らの宿所に招き寄せて殺害した。武勇優れた三人の子息が、潜伏先から義経陣屋に姿を現したのは、義経の謀略甘言に乗ったものと思われた。
 合戦後九月になると、鎌倉から平信兼らの所領処分の指令が義経のもとに届いた。鎌倉方は平氏の没収地に新しく地頭を置き、その残党の動きを封じ込めた。
 たがまた〔三日平氏の乱〕(1203)が起こる。
 乱の初期には一時的に伊勢・伊賀が平氏方の手に落ち、八風峠や鈴鹿峠を封鎖したが、まもなく平定されてしまった。

 若いときにともに経塚山に経筒を奉納埋設した平信兼の兄、平実忠は父の盛国が関東で没したのち、鈴鹿郡関谷を領地として関の姓を名乗り、地頭職をしていた。左近太夫将監であった。
 やがて鎌倉に召され北条将軍に伺候した。ついで足利将軍にも仕え子孫は繁栄した。それから五世にわたり左近と称し、十一代の四郎盛政は足利尊氏に仕え、十二代織部とその子の十三代の七郎は足利将軍家の側近、畠山義続に所属した能登の地頭、長英連に仕えている。

 平信兼を最後に迎え入れた飯南郡川俣村の岡小四郎は滝野城で自害した。彼の妻は嘆きのあまり谷野の奥地にある池に身を投じた。里人はその池を奥方の名の〔くまの池〕と呼び、その霊を祭って〔谷野館址〕には小四郎神社が祭られている。
また長楽寺には位牌があり、子孫が多気郡津田村に居住するという。また神原神社は、平信兼が城中に祭っていた三宝荒神を、滝野郷の人々が落城後祭ったと伝え、宮址は同所の浄源寺下にあり、今も〔宮地〕と呼ばれている。


参考文献、 〔源平盛衰記〕〔平家物語〕〔大山田村史〕〔飯南町史〕
      〔三重県史〕
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