東海道の昔の話(132)
   北条早雲との対話 3  愛知厚顔  2005/1/25 投稿
 


【伊豆の国盗り】

厚顔『興国寺城は伊豆の喉元といってよい位置ですね。いまでも興国寺
   城址に立つと、伊豆半島がよく見えます。当時も伊豆の情報はよ
   く入っていたのでしょう。』
早雲『私は自ら伊豆国修善寺の温泉にしばしば入浴に出かけ、伊豆の国
   の様子をつぶさに聞いたり調べたりしました。それは伊豆国を
   を切り取る国盗りの策をめぐらせるためでした。』
厚顔『貴方は自ら町人や農民に変装し、修善寺の湯につかりながら、
   伊豆の情報収集をしたとの記録もあります。得た情報から貴方
   は堀越公方の内紛を知ったのですね。』
早雲『当時、伊豆で最大の勢力をもっていたのが堀越公方です。
   堀越公方というのは、本来はこの地方行政機関のトップとして
   将軍義政の弟、政知が関東に下されたもので、鎌倉に入ること
   ができず伊豆の堀越(現:静岡県田方郡韮山町)に居を定めた
   ため、まわりから堀越公方の名で呼ばれていたのです』
厚顔『初代の堀越公方足利政知には三人の男子がいました。長男が
   茶々丸、二男が潤童子、三男が清晃です。茶々丸だけが先妻の
   子で、あと二人は後妻の円満院の子でした。』
早雲『そうですね。円満院がわが子の潤童子を跡継ぎにするため、
   先妻の子、茶々丸を些細な罪で牢に入れてしまったんです。
   延徳三年(1491)四月に足利政知が病死したとき、そのどさく
   さにまぎれ、茶々丸が牢から脱出し、円満院と潤童子を殺し、
   自分が二代目の堀越公方になることを宣言したんです。
   だが茶々丸と、政知のときからの堀越公方の重臣たちとの間が
   うまくいかず。私がそのあたりの情報をつかんだのです。』
厚顔『そうして貴方は興国寺城で作戦を練り、今川氏親、さらに
   葛山氏からも兵を借りて堀越御所を夜襲した。茶々丸は討たれ
   たとか、近くの守山に逃れて自刃したとか、落ちのびていった
   ともいわれますが、これで堀越公方の政治生命が終わった
   ことはまちがいなありません。
   そのとき貴方は伊豆の国中に風病が蔓延しているのをみて、
   薬を取りよせ、治療したり年貢を大幅に軽減したり、民政
   に力を注ぎ人々の厚い支持を得ましたね。
   それにしても実に鮮やかな国盗りです。そして新たに城を築き
   ました。
早雲『そうです。この城が韮山城です。』
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