東海道の昔の話(133)
   北条早雲との対話 4  愛知厚顔  2005/1/25 投稿
 


【小田原城の奪取】 

厚顔『貴方のあざやかな伊豆国盗り、それは戦国時代の開幕を
   告げるものでした。以前から守護大名同士の戦いなどは
   各地で繰り広げられていましたが、貴方の戦いはそれらと
   はまったく異質でした。
   堀越公方とは本来は鎌倉公方として関東一円を治める室町
   幕府の行政機関です。それを破ったのが貴方だった。
    地位の低い者が上の者にとって代わる下剋上です。
   弱肉強食という戦国時代の到来を告げ爽快な出来事でしたね。』
早雲『私は伊豆一国の国盗りに成功しても満足してません。
   さらに相模国への進出を企てました。それは常に勢力の拡張
   を図る必要がある…、それが戦国大名の宿命だったからです。』
厚顔『武将たちは領土拡張戦に勝ち抜き、獲得した領土を家臣に恩賞
   として与える。こうして自分の勢力と領国を維持すること
   ができたからですね。』
早雲『私にとってよかったのは、要衝の小田原城主、大森氏頼が死ん
   だことです。私は氏頼を相手にするのが苦手でしたから、
   氏頼の子、藤頼の時代になったことで小田原城攻めの作戦を
   練りはじめたのです。私は以前から大森藤頼に物を贈ったり
   してご機嫌をとってました。物を贈られたりすれば誰も悪い
   気はしない。私は藤頼のご機嫌取りに成功し、藤頼は私に
   気を許てしまったんです。』
厚顔『そして時期が到来しました。貴方は一通の手紙を藤頼に届け
   た。その文面はどんな具合だったのですか?』
早雲『それは「伊豆で鹿狩りをしていたら、鹿が小田原城の裏山に
   逃げた。鹿を追い返すため勢子を城に入れさせてほしい」
   というものです。』
厚顔『なんと見え透いた文ですね。しかし貴方の計略に相手は引っか
   かる。何も疑っていない藤頼は二つ返事、この申し入れを
   許可していますね。そして明応四年(1495)九月、勢子に
   化けた貴方の一隊が、小田原城の裏山から一気に小田原城を
   攻め、藤頼は敗れて落ち延びていったのですね。
早雲『この城盗りが小田原への第一歩ということでした。
   このとき私は六十四歳でした。小田原城に入ったものの、
   そこから東に勢力を拡張できません。三浦半島の新井城攻めて
   三浦道寸、義意父子を滅ぼし、相模一国の平定に成功したのは、
   永正十三年(1516)七月のことでした。
厚顔『そして三年後の同十六年、韮山城で亡くなられた。』
早雲『そう八十八歳でした。自分の生涯を振り返って思うに、やはり
   若くして応仁ノ乱に揉まれながら諸国を放浪し、苦労したこと
   が大変勉強になっています。しかし敵対する山名方の人間と
   知りながら、主人の伊勢貞親や私を匿ってくれた亀山城の関盛元
   さん。このご厚情は決して忘れることができません。』
厚顔『本日は国盗り物語、一代の英雄、北条早雲の生涯について
   詳しくお話を給わり、まことに有難うございました。
   また機会があればぜひお話をお聞かせください。では失礼
   します。』
早雲『はい。いつでもまたお呼びください。ではさようなら。』
                 (戻る)  (終わり)


参考文献   「北条五代記」「九九五集」「亀山地方郷土史」
       「三重県史」 

 
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