琵琶湖の北東に小谷山(495m)がそびえ、山頂には苔むした古城がある。
これが小谷城。わが国の代表的な山城であり、かって堅固で雄大な城郭を
誇っていた。いまでも累々と残る石垣は往時の勇姿を彷彿とさせる。
この城の主、浅井氏は永正十三年(1516)浅井長政の祖父、亮政のころ台頭
して北近江の覇者になった。小谷城はこの亮政が築いた城山で雄大かつ
難攻不落といわれた。
永禄二年(1559)、小谷城は華やいでいた。
それは城主、浅井久政の長子の新九郎が十五歳で元服して備前守長政となり、南近江の有力な名門武家の佐々木六角家から正室を迎えたのであった。
この祝宴に伊勢の鹿伏兎城(亀山市関町加太)から、はるばると参列した
若者がいた。鹿伏兎近江守定長の長子、豊前守宗心である。
彼は年も浅井長政より二つ三つ上ぐらいであろう。この二人がいつごろどこ
で知り合ったのか…いつしか記録類も散逸して、いまとなってははっきりし
ない。だが浅井長政の婚礼に招かれたところを見ると、お互いにかなり
以前の少年時代から交流があったらしい。
二人は初対面からお互いに心に触れ合う何かがあった。
彼は一緒に伴われてきた日野城の蒲生賢秀から促され、浅井父子に祝辞を
のべた。
『このたびはまことにおめでとうござる。伊勢亀山の関一党を
代表してお祝いを述べさせて頂きます。これで浅井家は末長く
寿ぐことでござりましょう。』
鹿伏兎宗心の祝いのはなむけに、城主の浅井久政は顔をほころばせた。
しかし花婿の長政の表情はあまり明るくない。不思議な父子もあるもの…
宗心は少し気になった。そして婚礼も終わって賑やかな祝宴が城の大広間で
とり行われた。そこで一献お祝いをと上座に座った長政に宗心が近ずいて
いくと、長政は自分から彼を手招きして声をひそめてささやいた。
『家中ではこの婚礼を歓迎しない者も多くてな…。』
『なんとそれはまたどうしてでしょうか?』
宗心が周囲を見回して聞きとがめると、長政は
『すでに蒲生から聞いていると思うが、実は父の画策で
佐々木六角の老臣、飛来加賀守定武の娘を貰ったんだよ。
ようするにわが浅井家が六角の家来になり下がった
というわけさ。だから家臣の中にはこの婚礼を喜ばぬ
ものが多いのよ。日野の蒲生賢秀も六角の家臣だから、
いまや浅井家も蒲生と同じなのさ…。』
こんな話を六角側や他の客に聞かれたらまずい。鹿伏兎宗心は大急ぎで話題を変えた。
『佐々木六角殿と伊勢亀山の関一族との縁は深いです。
このたびの婚礼祝賀にお招きを給わったのも六角家の
贔屓です。佐々木六角家とは敵になったり和睦で味方
になったりです。戦ではいついかなる出来ごとが起こる
かわかりません。昨日の敵が今日は友になるし、血肉
を分けた親や兄弟でも敵味方で戦うこともあります。』
『しかし貴殿とは心おきなく話ができそうです。
いかなる事態になろうとも我われは友でいたいもの…』
宗心の言葉に長政も
『お互いにいま一つ力不足な武将の倅、これからもできる限り
友として、ご交誼をお願い申す。』
案じたとおり、この婚礼は長政をはじめ家来達からは反発の声が強かった。
六角氏は京極氏とおなじ佐々木氏の分流である。父の浅井久政は彼らと戦っていたが、いつも敗北するか停滞ぎみであった。
婚礼の翌年、永禄三年(1560)三月になると長政は十六歳で初陣する。
野良田合戦である。攻め寄せてきたのは義父の佐々木六角義賢である。しかし長政は見事に撃退した。家臣たちはこれを見て
『これでこそ我らの大将だ!』
と大喜びに沸いた。そして実父の久政が鷹狩りに出かけた留守に浅井長政を
小谷城へ迎え、
『ただいまから長政様を主人とする。』
と宣言したからたまらない。驚いた久政は家臣を集めようとしたが誰も集ま
らない。仕方なく竹生島で一人隠居してしまった。
小谷城の主となった長政はまず佐々木六角から迎えた妻を離別する。
この事態に義父の六角義賢は怒りを爆発させた。永禄三年(1560)八月、
部下の日野城主、蒲生賢秀に大軍を引率させ浅井氏の枝城、肥田城を攻めさ
せた。だが長政はこれを見事に敗走させる。これを見て父も息子の実力を認
めないわけにいかず、親子の和解をして小谷城に戻り別邸を構えだ。
翌四年(1561)、近江観音山城に大軍を集めた佐々木六角義賢は、美濃の
斎藤義龍と同盟して浅井長政を挟み討ちにしようとする。
緒戦に浅井氏の支城、佐和山城を落城させたが、すぐに長政に取り戻さ
れてしまう。さらに永禄六年(1563)には六角氏に内紛が起こる。
それに乗じた長政は近江の湖東平野を南下し、坂田、浅井、伊香から愛知、
犬上、高島の六郡を占領してしまう。
そんな永禄十年(1567)、織田信長から和睦同盟の申し入れがあった。
『我らと同盟し天下統一を成し遂げましょう。』
それに対し浅井長政は
『われら浅井家と懇意な関係にある朝倉義景を敵にするときは、
事前に知らせると約束してほしい。』
『誓って約束は守る。』
これを了承した織田信長は妹で絶世の美人、お市の方を長政に娶らせた。
『これで我ら二人は兄弟である。』
翌永禄十一年(1568)七月、信長は大軍を率いて近江佐和山城に入城する。
このとき将軍の足利義昭は寄寓していた越前朝倉氏を見限る。彼は長政に
護衛されて織田信長を頼ってやってきた。このころが長政と信長の蜜月時代
であった。この年には織田信長と浅井長政の共通の敵となった佐々木六角。
彼は結局部下たちに離反され観音寺城を明け渡してしまった。
織田信長が足利義昭を奉じてついに入京を果たした。九月二十六日のことで
あった。
しかし元亀元年(1570)になると、信長は早くも将軍足利義昭をロボット
化してしまう。朝倉義景に対し
『上洛し将軍に伺候せよ。』
と命令を下したが、朝倉家は肝心な将軍には力も何もなく、織田信長が影で
操っていることは承知している。
『京へ行けば信長の膝に屈することになる。』
と、たびたびの上洛命令も無視をしてしまう。天下の将軍の命令を無視され
たことに腹を立てた織田信長、四月には越前の朝倉義景への討伐を計画した。
〔続く〕
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