父の期待を一身に担った山鹿素行、彼は会津若松の城下で恵まれた幼年時代を過ごしていたが、六才のとき一家は江戸に出た。父の山鹿高以の方針で学問の道を究めるためである。
『私は生来、不器用でしたから、論語、孟子、大学、
中庸や易、詩、書、礼語、春秋などの五経、あるいは
呉子、司馬法、太宗問答、詩文の書を読んだのは
八才のころまでかかりました。』
と素行自身が云っているが、それにしても大変な秀才である。
九才のとき父の亀山以来の親友だった塚田杢助という人に、著名な朱子学者の林羅山の弟子にしてもらうよう斡旋を頼んだ。この塚田氏は老中、稲葉丹後守正勝の家来であったが、
『まだ幼いのに殊勝な心がけである。』
と云われ、江戸城内で直接、林羅山に依頼したところ、ほどなく面接
を受けることができた。
城内では林羅山と弟の林永喜の二人が待っており、素行に「論語」の序を訓点のついていない漢文の原本で読ませた。彼が無事読み終わると、こんどは宋の黄庭堅の文集である「黄山谷集」を取り出して読むよう求めた。そして永喜が
『子供でこれだけ読めるのは感心だ。しかし先生が
田舎学問だったのか、読み方によくないところがある。』
と云い、羅山も
『同じ意見だ。』
と感心して喜び、特別に念入りに面接したようである。そして無事に入門が許され十一才ごろまでには学問も相当進んだ。
十一才の春には新年を祝う詩を始めて作り、羅山先生に見せたところそのうちの一字改めただけで序文を書き
『幼少の者の作った詩としては格別なものである。』
とたいそうの褒めようであった。長じてだんだんと学問も進む。
十四才のころに詩も文章も上手になり、あの亀山で亀の甲を干せと和歌を詠んだ、権大納言の烏丸光広からも褒められる。十五才でははじめて
「大学」の講釈を大勢の前で行ない評判をとる。十七才で神道の秘儀を学ぶ。また歌学も好み二十才までに「源氏物語」「伊勢物語」「大和物語」「枕草子」「万葉集」などに至るまで師の広田担斎から
『もう教えるものはない。』
と云われるほど究めている。その頃から甲州流の兵学も研鑚しはじめた。いつしか兵学の分野でも抜きん出た学者となった。若くして大そうな学者がいるという評判が江戸中に流れると、老中の阿部豊後守や加賀藩主の松平筑前守らが
『高禄で召し抱えたいが…』
と打診してくる。しかしいずれも父の六右衛門高以や本人が
『まだ若輩なので…』
と断わっている。
あるとき三代将軍の家光から
『城を築造するときの模型を作るように』
との命を受けた。素行はマラリヤに罹っていたが、老中阿部安房守が直接彼のところまで来て「ぜひに」との意向を伝えた。そこで彼は表と裏の二対の模型を制作し、大変喜ばれたことがあった。
彼が二十五才のとき桑名藩主の松平越中守定綱と、兵学や学問のことで議論となったが、素行の主張に定綱が納得し彼の門弟となる。
同じころに備後三次城主の浅野因幡守や奥州ニ本松の丹羽光重とも親しくなる。このように大名の間に沢山の知己を得た彼は、やがて将軍の命によって師の林羅山とともに、江戸城中で老子経の講釈などを行った。
慶安の晩年には将軍家光から直々に講義を求められたが、将軍の逝去によって実現しなかった。
こうして承応元年(1652)を迎えると、播州赤穂城主の浅野内匠頭長直公から一千石で召抱えられることになった。長直公はあの赤穂事件の長矩公の父である。かくして翌年には播州赤穂で学問の講義をはじめた。
浅野公父子からは随分厚遇され、九年間も滞在して沢山の弟子たちに兵学を教えた。そして浅野公が引き止めるのを振り切り、万治元年(1660)に江戸に戻って学者生活を再開している。
このころまでが林羅山と素行との師弟関係が、もっとも親密なころだった。このようにして山鹿素行の行く手は、誰の目にも順風満帆に映ったいた。
ところが寛文六年(1666)十月三日、幕府から突然お咎めを受ける。
『その方は世間を惑わす学説を唱え御公儀に対し
不届きな書物を書いた。これはまことに不届き
千万である。よって播州赤穂の浅野家へお預け
処分とする』
学者に対する言論弾圧はこれが初めてである。山鹿素行は晴天の霹靂であった。
(続く)
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