東海道の昔の話(154
林羅山と山鹿素行 4 愛知厚顔  2005/12/2 投稿
 


 幕府政権の政治顧問のような立場になった林羅山。
彼は将軍家光の側近に登用されるかたわら、もっぱら著述に従った。「大学和字抄」「孫子言解」「三略諺解」など、みな幕府の命で抄解したものである。この功績によって寛永六年十二月には多年勤労の功を賞し、また学問振興の意を表すためか、羅山と弟の林永喜に
  『その方らに法印の位を授ける』
と表彰され民部卿と称した。また上野忍ケ岡に広大な土地を与えられる。そのうえ金二百両を与えられて学問所、ならびに文庫を建てさせた。この学問所では経義、史学、詩文、博読、皇邦典故などが教えられた。

 ついで尾張藩の徳川義直公は林家のために聖廟を上野に建立する。
そして聖像ならびに顔、曾、思、孟の中国の偉人の木像を祀った。
また先聖殿の額を懸け、釈迦の具を備えた。徳川義直は徳川家康の諸子中でももっとも学問を好み、著書もある。学問上の功績も大きいものがあった。
 そして家光が東叡山に参詣したとき、そのついでに上野の聖廟も参拝する。家光ははじめて書物奉行を設け、寛永十三年に入るといままで外交上の文書はすべて京都五山の僧侶に任せていたものを廃し、
  『今後は羅山にすべてまかせる。』
とその一家の任とした。これは文教上とくに特筆すべき一大事であった。

 家光の時代の著述としては、まず林羅山の手になる大学和字抄、
孫子諺解、三略諺解、将軍家譜、朝鮮往来、和漢荒政儒民法制などがおもなものだった。なかんずくいちじるしいものとして寛永諸家系譜伝がある。これは寛永十八年に六人衆のうち太田備中守資宗が奉行となり、林羅山が主任となってこれを助けた。さらに補佐として子の林春斎や多くの学者が携わっている。完成は寛永二十年、三百七十ニ巻の中身は松平、清和源氏、平、藤原などの五部に分け、末に医者、同胞、茶道の三部を添えて作られた。さらに寛政年間に引き継がれて子の林春斎が主任となって修正増補している。すべて千五百三十五巻からなり、大名はもとよりお目見え以上の諸家の系譜はすべて網羅されている。

 四代将軍、家綱の時代になると、林家は本朝通鑑を完成させた。
これは正続で三百十巻になる。この書は編集年体も材料も豊富、かつ叙述も公平との評価が高い。本書をはじめ林家の国史編纂にかかわる功績は、江戸幕府が行った文教政策でも随一のものといわれる。
 
 林羅山は徳川家康、秀忠、家光、家綱の四代に仕えた。
俸禄も九百十石を給わるに至っている。彼と弟、息子のいわゆる林家は朝鮮をはじめとして外交の文書、応接の一切を司り、律令の原案を定めた。幕府の公式文書はほとんど林家の手になり、天皇の即位の礼、改元、入朝の礼、徳川家廟の祭祀の式典などは、ことごとく林家が預かっている。

 また羅山は詩文に長じ書を得意とした。人々が揮業を求めると彼は即座に千言を成したという。書の類は文集、詩集、日記の類を含めると百五十余部に達していた。主なものとして論語摘語、大学要旨、老子経頭書、軍陣行列、武将伝、神社考、神道秘訣、伊勢内宮勧文、源平綱要、武門姓氏考、駿府日記、羅山抄猟抄、羅山文集、丙辰紀行、有馬温泉記ほか多数。

 明暦元年五月(1654)には江戸城二の丸にあった銅製の官庫を下賜され、自宅内に移築した。ところが三年後の正月十九日に江戸に大火があった。火がまさに羅山邸に襲い掛かり、炎が降り注いできたが、羅山は逃げた先の家でも「二十一史」を読んでおり、門人が避難を勧告したがこれを止めなかった。
 そして火が収まってからも、自若泰然としてまだ本を読み続けていたという。そしてようやく我れに還って邸宅が悉く焼け落ちたのを知ると、真っ先に
  『下賜された銅庫は無事か?』
と聞いた。しかし
  『残念ながら鳥有に化しました。』
との答えに羅山
  『ああ天は我れに味方せずか…』
と嘆息したという。これ以降はすっかり元気を失ってしまい、日にひに体力の衰えが目立った。そして五月二十三日に没したのであった。

 林羅山は幕府の政治顧問として大きな足跡を残したが、彼の学問上の業績評価はそう高くない。彼の学説は師の藤原惺窩と違って純然たる朱子学だった。羅山はかって徳川家康に
  『僧侶などの意見を入れたり、仏教をもって政治
   に反映することは誤りです。』
と建議したことがあったが、家康は僧、天海にこれを
  『そちはどう思うか?』
と訪ねたことがあった。すると天海は直ちに反駁文を書いてこれを家康に奏上した。そこで家康は二人に対論させたところ、羅山が論争に敗れた。そして後に「本朝神社考」「神社啓蒙」などの書を著した。
 もともと羅山は神道、儒学の一致論者だったので、都合よく神道を
利用したという学者もいる。とにかく林羅山は山崎闇斎まではいかないにしても、神儒ニ教の融和調和の立場を計った学者であった。
 
 代表的な「理気」の説とは、要するに理と気は一つに帰するのみであり、むしろ王陽明の一元論にも似ている。彼は云う
  『ひとは本然の性と気質の性の二つを持つ。純然たる
   本然の性も物欲の覆うところとなって、気質の性
   が生まれる。ここにおいて学問すなわち修徳の工夫を
   積んで気質の変化をはからねばならない。
    それには外部的修養としての読書と、内部的修養
   の持敬とにより、内外あいまって渾然と融合するので
   ある。』
  
 のちに山鹿素行はこの説に反駁するのだが、このときは林家の系統は徳川政権の中枢に位置して、政治的に学術面に大きな発言と足跡を残した。とくに羅山の孫の林信篤は五代将軍、綱吉の寵愛を受けた。 綱吉は幼少から学問を習い、かつ向学心が旺盛だった。将軍となってからも学問を絶やさなかった。老中、堀田正俊もまた学を好み、まさに綱吉政権の初期は種々な学問奨励の気風に満ちている。
 延宝八年には林信篤を召して経書を講じさせ、続いて大学を講じさせるのが恒例となり、この後も政権内で重要な役目を担う。彼は父の春斎や祖父の羅山を越えた存在とも言われた。
                       (続く)
 

 
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