東海道の昔の話(155
林羅山と山鹿素行 5 愛知厚顔  2005/12/2 投稿
 


 寛文六年十月三日(1666)、山鹿素行は幕府から播州赤穂へ流罪の命を受けた。理由は彼が「聖教要録」ほかの著書で、幕府の精神的支柱にされている朱子学を批判したとされた。もともと素行は幼少のころに林羅山に入門し、朱子学のイロハから手ほどきしてもらっている。
 朱子学とは禅仏教の影響を受けながらも、理論的にそれを批判しつくして成立してきた新しい儒学である。両者がいつまでも共存することができないのはわかっていた。林羅山は仏教をを批判しこの影響を徹底して排除しようとした。

  『佛者は山河大地までも仮の存在と見て、さらに人倫をも
   妄想であるということにより義理を無視し、人たるの道
   の罪人となった。
    すなわち仏者は君臣、父子といった基本的な人間関係
   を捨て去ったのだ。だが私は君臣、父子の人倫以外のところ
   別な道があることを認めない。』
  『理は宇宙の原理であり、万物の本質であって、論理的順序
   においてのみ万物に先立って存在するものであるから、
   事物ついて見るならば「理」と「気」とはあくまでも別の
   二つのものでしか有りえない。私は理と気を分けて考える
   ことはできない。それは朱子の考えと違う。この点だけは
   どうしてもゆずれない。』

 この羅山の学説はある程度理解できるが、山鹿素行からみると
  『私が自分なりに長年研鑚した結論では、朱子の学はいた
   ずらに格物至知の理気を説き、実行については大いに疑
   わしい。それゆえに我れは研究工夫のうえ、漢、唐、宗、
   明の学者の書をことごとく読み、ついに疑いを晴らすに
   至った。また疑問は孔子の境地を究めようと研鑚、ついに
   聖学の要を得た。』
と、師の羅山をはじめとする当時の天下の朱子学者に反駁した。
しかし幕府はこの反駁学説をなぜ有罪としたのか…。

 それは当時の学問方面を監督する立場にあっ老中、保科正之の意向が大きかった。彼は熱烈な朱子学者であり、素行はこれを罵倒したことになる。保科が烈火の如く怒ったのは容易に察しがつく。しかし素行も人物としては兵学に通じたが、言葉がきつく罵詈駁撃しすぎた。
  『林家の学問は雑学にして聖学にあらず。』
と誹謗。これらの事情から林羅山がいくら元弟子の山鹿素行を庇おうおうとしても、いまの朱子学者の弟子たちの怒りを押さえられない。
  『いまのうちに取り締まらなければ、他日治安妨害の恐れが
   でるかも知れない。』

 これは大阪の由比正雪の事件が、まだ人々の脳裏に新しかったこともある。だが素行の学問上の功績は大きいことは、羅山やその門人たちもよく承知している。それゆえに結局、播州赤穂に流罪という軽いもので済ませた。それは著書や朱子学に対する批判を少し遠慮せよ、ぐらいの処分であった。

 彼が赤穂で書き残した書や言行をみると、幕府に大いに恐れられまた嫌忌されたこと、ならびに彼の抱負のまことに壮大なることを知る。
 その後、十年の延宝三年に赦免されて江戸に戻った。
江戸に帰ったあとは浅草で著述、および講義に従事していたが、昔の弟子は格別として、新たに弟子を取ることを禁じられ、そのため山鹿素行は表面上は幕府側の林家との交流はなかった。

 しかし彼の没後、元禄十四年(1701)江戸城松の廊下で赤穂城主、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷した。この後、四十七士の赤穂義士が復讐に成功するが、彼らが山鹿素行の兵学を学びよく受け継いでいた。
 それはよく知られている。近年では乃木将軍がとくに顕彰したこともあり、第二次戦争時代には山鹿の思想が大いに見直されたこともあった。
 貞享二年(1685)、六十四才にて死す。墓は牛込の宗参寺にある。

 さて大成してからの林家と素行とわが亀山との接点。
それを残された彼らの旅日記から拾ってみよう。
 羅山の第三子の春斎は寛永甲子年四月に京都二条城を発って東海道を江戸へくだったが、それを「寛永甲子紀行」に記した。

 甲子三月二十三日 過鈴鹿山路無花  鈴鹿山を過ぎる道に花無し
  野鹿銜花鈴護花  野鹿は花をついばみ鈴は花を護すか       只防鳥獣酷憐花  ただ鳥獣を防いで酷く花を憐れむ
  山名鈴鹿暮春末  山は鈴鹿と名付く 暮れ春の末
  脚不衡花不護花  かえって花をつけず 花を護らず  

     同和閑林詩韻   同じく閑林に詩韻を和す
  鈴鹿関雲九折登  鈴鹿の関 雲は九折に登る  
  詩脳咳唾付童峪 詩を考えているとき童は谷に唾を吐いた
  筆端馬上共相走 馬上で筆をとり共にあい走る
  李白再来題水西  李白の再来か 水は西にと題す

      八十瀬河 (鈴鹿川)
  鈴鹿山青水自清  鈴鹿山 青め水おのずから清し
  眼根耳朶共分明 眼根耳朶ともに分明なり
  忽過伊勢八十瀬 たちまち伊勢の八十瀬を過ぎ
  自此武蔵一百程 此れおのずから武蔵一百の里程なり

 三月二十四日 晨発関地蔵和閑林詩韻 朝に関の地蔵を発し
                   閑林に詩韻を和す
  不見長安眼豈窮  長安を見ずして眼あに云わんや 
回頭湖上臥雲夢  頭をめぐらせば湖上の雲は夢に似たり
  娑婆来往八千返  この世はまた八千も繰り返し戻り
多自地蔵関裏通  多くは地蔵関裏に自ずから通ず

    亀山   和閑林詩韻  閑林に詩韻を和す
  老仙昔日駕青牛  老仏は昔日 青牛に駕す
  飛度海雲千歳悠 飛びわたる海雲 千歳悠々たり
  聞説亀山是亀島 聞き説く亀山これ亀島かと
  人間亦自有神丘 人間また自ずから神丘にあり

   鈴鹿関   寛永二十年紀行 
     羊腸四百八十間  曲がりくねった坂道は四百八十間        土人謂之八町   土地の人は之を八町と云う
勢州鈴鹿鎖関家  伊勢の鈴鹿 関家を閉ざす
九折八町岩径斜  九折八町 岩径は斜めなり
秋色嵐光多感慨  秋色の嵐光に感慨多し
  護花声裏却銜花  花を護する声の裏 かえって花をついばむ

 また山鹿素行は二回の播州赤穂にいったのだが、その旅日記は
「海道日記」「東海道記」として残された。しかし記述は非常に簡潔であり、”今日鈴鹿山を越えた”とか”関の地蔵往還は賑わっている”
あるいは”亀山は岡の上の細長い町だ”とかで終わっており、かって
父の山鹿六右衛門長以が亀山城の関氏の家臣だったことは触れてない。
もう過ぎた父の時代のことは忘れていたのかも知れない。
                    (終り)
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参考文献  三上参次「江戸時代史」 山鹿素行「配所残筆」
      「山鹿語韻」 「日本人名辞典」
      林羅山「丙辰紀行」 「羅山文集」  

 

 
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