東海道の昔の話(64)
   亀山藩の明治維新2     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【近ずく足音】

 万延元年(1860)三月三日、大老の井伊直弼が江戸城桜田門外で殺され
た。これを機に幕府の勢威低下が加速しはじめる。
 文久元年(1861)になると攘夷の世情ますます騒然となり、将軍のお膝元の江戸でもアメリカ公使館員ヒュースケンが路上で浪士に殺害された。
フランス公使館の護衛をしていた亀山藩士と、フランス水兵が衝突しそうになったこともある。
 亀山藩では軍事兵制の整備の必要性を痛感し、会津藩の林権助を招聘
して軍事操練を計画したが、林は自分の代理として小幡枝織を派遣して
きた。藩は小幡について藩士の戦闘訓練を強化していった。
この林権助に操練の世話になったことが、のちに鳥羽伏見の戦いのとき足かせになってしまう。

 文久二年(1862)年九月、亀山藩主石川総禄が脚気にて江戸藩邸で亡くなった。文久三年二月、亀山藩は京都の情勢、とくに勤王方公家の動きが知りたいと思ったが手ずるがない。この事態に藩は困ってしまい黒田孝富の謹慎を解いた。
 そして大目付の柴田俊助が上京するのに黒田を同行させた。孝富は京に入るとすぐ旧知の勤王派公家の三条実美に面会し、
  『亀山藩の大勢は勤皇です』
と熱心に説明した。募集中だった親兵に亀山からも派遣採用してもらうよう国元に要請する。家老の一員だった近藤鐸山は保守派の支配する藩会議にはからず独断で
  『よし文武に優れた若者を九人選抜して派遣する』
とし、出発させたのである。

 ところが八月十八日になって京都の事態が一夜にして転換する。
薩摩藩と会津藩が手を握り、勤王派の公家たちの御所への参内を阻止したのだ。この政変でそれまでの長州藩の勢いは逆転し、劣勢に追い込まれた。そして勤皇派の公家七卿が長州に追放となった。いわゆる七卿落ちである。
 翌十九日、雨の中を七卿は長州へ向け出発した。
 それを見て黒田孝富は後を追った。二十日は西宮、二十一日は兵庫の楠正成墓に墓参した。しかし亀山藩から再三
  『藩公の命令である。ただちに帰国されたし』
と云われている。やむをえない。彼は須磨の海岸で訣別の和歌を詠む。

  寝ても思い醒めても思う皇国の
          御威稜いかなる現此世

 また若いときに師事した姫路藩の勤王派、河合惣兵衛が自刃したことも、彼を帰国にかりたてたのだろう。

 孝富は亀山に帰るとすぐに近藤鐸山に京都の政変を報告した。
  『これはぐずぐずしておれない。すぐ東へ出発してくれ』
近藤は保守派の家老とまったく相談せず、孝富を急ぎ江戸に派遣した。
彼は政変と今後の対応を尾張藩や水戸藩そして徳川中納言慶篤らに行っていった。実にすばやい行動力の人である。
 ところが亀山藩江戸屋敷の高木喜平はガンコな保守派。彼は孝富が連日出歩いて高位の人々と面談するのが面白くない。それに幕府の目が恐ろしい。そこで自分の持つ権力を発揮し、
  『これ以上藩に迷惑がかかる活動は許さない』
と孝富の滞在手当金の支給を停止し、帰国を命令したのである。
やむを得ず後髪を引かれる思いで亀山に戻ったのだが、そこではまたがっくりする出来事が待っていた。保守派の家老、佐治亘理が近藤鐸山に
  『その方、専断で黒田孝富を操りし罪重し』
と閉門蟄居を命じたのである。このあと近藤が罪を解かれるのは四年四ヶ月の後であった。
   前に戻る                    (続く)

 
戻る