【騒乱の世情】
元治元年(1863)正月十五日、将軍家茂は江戸をでて京都二条城に入った。四月には水戸の藤田小四郎、武田耕雲斎らが天狗党で挙兵。
ますます天下は騒然となってきた。六月六日には京都で池田屋事件がおこる。新選組の近藤勇らが勤王派を多数殺傷し捕縛した。
そして七月十九日になると、伏見から京に上ろうとした長州の武装勢力と薩摩、会津の連合軍が守る蛤門で衝突し、長州側が大敗北を喫してしまった。このときの戦では亀山藩は大砲を曳いて、山城国橋本駅周辺に出兵している。年末には幕府連合軍による第一次長州征伐が行われたが、長州側が三人の家老を切腹させて幕を下ろした。
慶応元年(1865)五月、藩主の石川総修が病気で亡くなり、実弟の成之が家督を相続した。このころの藩政は佐治亘理、加藤内善そして名川六郎右衛門ら保守派が支配し、改革派は沈黙を強いられたままであった。
ところが慶応二年(1866)正月二十六日、予想もしなかった出来事がおこる。それは坂本竜馬の斡旋で、あれほど憎みあい敵どうしだった薩摩と長州が同盟を密約したのだ。もちろん地方在の亀山藩はそんな情報は伝わっていない。四月には荒神山観音寺境内での博徒の大喧嘩を鎮めている。
五月一日、幕命により藩は京都油小路、竹田街道の警備を任された。
これにより亀山藩は地元と江戸と京都市内と、三つの拠点で活動することになる。
またこの年の六月から七月には第二次長州征伐が行われたが、幕府軍の敗北に終わっている。
十二月、徳川慶喜が十五代最後の将軍職についた。
十二月二十五日孝明天皇崩御。
この知らせを自宅で謹慎中の近藤鐸山が聞いて哀悼の和歌を詠む。
加茂の山八幡の山のいてましも
今日ははかなくなりにけるかな
嬉しとは誰か思はむ此春は
梅の匂も鶯の音も
慶応三年(1867)いよいよ世情は動乱の様相となる。
藩は京都駐在の責任者に近藤杢右衛門、星野長太夫、堀池幸助らを任命し強化につとめた。また江戸駐在には家老の加藤内善を京都から転勤させた。三月には江戸城馬場先門の警備が藩主石川成之に命じられ、江戸駐在員の増強がおこなわれた。
京都では五月に藩士が新撰組の屯所に連行される事件もあった。
秋十一月十五日には京都で地下活動中だった坂本竜馬、中岡慎太郎が暗殺された。
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