東海道の昔の話(73)
   亀山藩の明治維新11     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【維新の終結】

 戊辰(1867)十二月五日付をもって、保守派によって政権から追われた家老の近藤鐸山。彼は失意のままじっと運命に耐えていたわけではない。
じっと形勢を観望し時期の到来をひたすら待っていた。
 彼はひそかに京都の朝廷側近実力者、松平慶永〔春嶽〕に書状を送り、亀山の政変を報告した。それを知って京都から書面が亀山藩の保守派政権に届いた。それは彼らの強引な政権運営を叱責したものだったが、藩内ではこれをさほど重大だと気がついていない。
 そこで京都の朝廷は明治二年二月に入ると、十五歳の藩主、石川成之と、まだ五十五歳で健在な実父の総和の二人を京都に呼び出した。
そして厳しい内容の指示があった。それには
  一、近藤鐸山の幽閉を解除すること
  一、黒田孝富を殺害した首謀者を罰すること
  一、近藤鐸山に政権を担当させて藩政を改革させること

 これを知った保守派は
  『近藤たち改革派が三条実美や松平慶永の力を借りて
   我われを圧迫した。実に卑怯だけしからん』
と非難したが、近藤鐸山が訴えなくても朝廷の干渉は遅かれ早かれ行われ、いつかは政権を放り出す運命にあった。

 三月八日。京都へ呼び出されていた藩主父子が帰城した。
そしてさっそく近藤鐸山の蟄居幽閉を解き、家老に復帰させるとともに執政に任じ、藩政改革の全権を委任した。これを知った落首

    春の日や再び開く近江藤

 彼はまた片腕として平山亮太郎を藩年寄に復職させた。この落首

    また出たと坊主びっくり首を撫で

 これは平山が前年の正月十三日、黒田孝富とともに不満天誅団を組織して、医官の高田良景を斬ったことを揶揄した歌である。坊主とは僧侶のことでなく、その当時の医者は髪を切った人が多かった。だからこういう形容をしたのだろう。平岩らはもはや藩政改革に邁進する決意をしており、前のように反対者を殺すやり方はしないと誓っていた。

 三月十九日、保守派の次番、芦谷吉右衛門や鉄砲小隊の長尾彦四郎、加藤敬三郎ら多数が免官となった。藩政改革は着々と進んでいった。
翌日には鈴木源平と柏木雄介が逼塞を命じられた。鈴木は十月末の黒田殺害のとき、現場に居合わせながらこれを止めなかった罪を問われたのであり、柏木は現場で黒田を弾劾する文を作成した罪だった。
 二十六日には石川丈山ら八人に切腹を命ずる内定があった。
この切腹の処分がどこからとなく漏れた。そして彼ら鉄砲隊の下士たちの中で、この処置に不満を持ち八隊のうち三隊が、反乱を起こそうとする動きがあった。
 しかし藩の慎重な裁判で再審の結果、減刑される者や新たに逮捕された者を含め、黒田孝富の殺害に関係した保守派の叛徒四十四人を罪に処した。微罪を含めると九十人ほどにもなる。処分の内容は禄高を減らしたのと蟄居閉門が主であり、切腹斬罪などの死罪は一人だけであった。

 その死罪の一人が大山岩太郎である。
 彼は黒田孝富を井尻の三昧で斬首した張本人である。彼は近江屋から遊女の小糸を連れ出して脱藩逃亡していたが、東京の親兵隊(近衛兵)に入っていることが判った。
 四月に入ると、亀山藩江戸屋敷駐在の田辺量治は東京親兵隊に交渉し、
  「この親兵隊の大山岩太郎は勤皇の志士を殺害した
   犯人である。お引渡しを願いたい」
と求めた。そして親兵隊の責任者がこのことを岩太郎に告げるともはや観念したものか、軍服を私服に着替え、悠々と縛についたという。
渡辺は彼を武蔵国豊島郡三ノ輪(東京都南千住)に連行し、斬罪に処したのである。
  「……」
岩太郎は最後の最後まで一言の弁解もしなかったという。
 これは近藤たちが最小の犠牲者で、事件の幕引きをしようとした苦肉の策である。これを対立する両派がクーデター、反クーデターのたびに断罪処分をすれば、報復が際限なく繰り返され、それこそ収拾がつかなくなっていたであろう。
 まもなく亀山藩は廃止となり県制が敷かれる。そして三重県の一部となり、新しい時代を迎えていくのだった。

 明治十三年、明治天皇が亀山に行幸あそばされ、大演習を統監されたとき、同行した太政大臣、三条実美公は亀山東町の三河屋に宿泊された。
 そのとき黒田孝富の最後を哀れみ、祭祀料として金一封を賜った。
明治十七年には近藤鐸山ら同志は亀山城内に黒田孝富遺剣碑を建立した。
それには三条公の碑文が刻まれている。近藤鐸山の碑
黒田孝富遺剣碑 長年の同志だった近藤鐸山は明治二十三年に没した。
彼の碑も黒田とともに並んでいる。のちに朝廷から黒田孝富に従五位、近藤鐸山に正五位が
贈られた。
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参考文献: 龍渓隠史〔鈴鹿郡野史〕ほか 

 
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