東海道の昔の話(72)
   亀山藩の明治維新10     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【保守派の政権再奪取】

 黒田孝富が殺されたころ、南野村に住む黒田の同志、田辺量治を脅迫したものがいた。その調査処置に黒田改革派の堀池央太夫、奥平要蔵、早崎土介、小林隻太などの人々は、藩の職務をとる間がないほど多忙だった。その隙に乗じ保守派は藩政を乗っ取る工作に入った。
 戊辰(1867)十一月一日に保守派叛徒の一人、星野武生が大目付に任じられると、電光石花の人事改革が行われた。藩政の主要なポストはことごとく反黒田、反近藤、反平岩の保守派で占められ、改革派の多くは閉塞を命じられた。
 ここに四十日を経ずして落首のいわゆる「こんぴら」藩政府はまったく転覆してしまったのである。反クーデターの成功である。

 しかしこの保守派の政府は政権を動かす人材、とくにトップの人質に欠けていた。排除した家老の近藤鐸山が、中央新政府に太いパイプを持っていたこと、それが藩にとっていかに大事か、まったく理解していなかった。それなのに闇雲に反クーデターを行ない、政権を奪取したまではよかったが、その後の政権運営に行き詰まるのは、誰の目にも明らかだったのである。
 この政変で免職または蟄居などの処分を受けた人々はつぎのとおり。
 軍事政事相談役、近藤鐸山   
      年寄、平岩亮太郎
         加藤善太夫
      年寄、市川数馬
     御用人、平岩道八
     御用人、川上権助
      家老、加藤内膳
      家老、近藤幸養
この処分を受けたこれら改革派が詠んだ落首がある。

  時雨るるやちぎれちぎれの黒き雲

 時雨は雨を長時間にわたらせない。そして「ちぎれちぎれ」とは右往左往する保守派を揶揄したものと思われる。保守派の政権を担う主要な人物は
      家老、名川尚以    御用人小役、権太五太夫
      年寄、細木正順      大目付、星野守弥
         柴田古敏          加毛春叢
     御用人、天野遠漠            
         和田正道
         星野長太夫
         新儀儀平            ほか

ほか十人で、いずれも隠居した元家老の佐治亘理の系列に入る。
これらの人々は二月の近藤、黒田によるクーデターで失脚した人が、名誉を回復したものであった。

 ところが誕生した保守新政権の評判はよくない。なんといっても
  『彼らは郡代奉行の黒田さんを殺した一味だ』
亀山城下の人々の噂が聞こえてくる。そこで藩政府は十二月五日になると、黒田殺害に関係した保守強硬派の頭目、石川治郎右衛門、芥川亮介、大目付の星野守弥らを免職したうえ閉門蟄居を命じたのである。
 これは反近藤、反黒田で固まった保守派でも、政治が公平に行われていると、世間に示めそうとして、自分たちの仲間を生贄にして罰したものである。その実態は藩政の中で、まだ多数を占める中間派の意見に従ったものと思われる。これを見た落首あり
  
  御用箱あけて見たれば煙立ち
      御隠居さまとなりはてにけり

 味方と思われた藩政府がやがて黒田孝富を斬首した若者、大山岩太郎
も逮捕するに違いない。岩太郎はこの気配を察すると脱藩した。
彼は江戸を東京と改称した東にむけ脱走したのだ。このとき亀山東町の法因寺入り口の西にあった近江屋から、遊女の糸吉を連れ出している。

 再び政権の奪取に成功した保守派は、早急に人心を掌握する必要があった。失脚させた近藤鐸山の時代に、酒類の密造業者を厳しく取り締まり、彼らに罰金を科したことがあった。保守派政権は善政の見本を示そうと、この罰金を免除する通達をだした。しかしこれは住民から歓迎されなかった。
 殺された黒田が郡代奉行のとき、中若松村の酒密造者の一人、内山某に科した罰金は金壱千両、当時亀山藩領内の業者から徴収する酒や醤油類の税金は、全部合わせても金四百余両しかなかった。
 それなのに二倍半もの近い罰金を一人に科した事実を人々は
  『これは一罰百戒の意味があるのだろう』
と好意的に判断していた。
 しかしこの密造者は罰金が払えず、私有財産を売って金を調達しようとした。ところが人々は後難を恐れたのか、かかわりたくないと思ったのか、彼の土地や動産を買う者はなかった。困り果てた密造者はしばしば罰金の納入延期を願い出て、ほかの滞納者と同様に不安な毎日をおくっていた。

 ところが十月二十八日に黒田孝富が殺害され、保守派の政権奪取が成功すると、人気取りのため政治の方針が寛大となり、罰金の滞納者の情状を酌量して免除される者が多くでた。
 中若松村の内山某もまた免除の恩典に浴した。ところがある日、藩の法廷から召喚状が届いた。内山は
  「罰金の滞納よりも酒密造は事実であり、死罪か軽くても
   永牢は免れないだろう」
と覚悟を決めた。 そこで一族は集まって水杯を酌み交わした。
  『もはや再会は不可能だろう』
内山某はそう信じて亀山に来て藩の法廷に座った。
 その法廷では主審、大河内正英が宣告文を朗読した。最後の結びの文章が近ずき
  『罰金滞納が久しいのは、上を恐れない不届き千万につき
   重き咎科に処す』
と云って言葉を切り茶を一椀啜った。そのとき内山某は顔面がたちまち蒼白になり、白洲法廷の砂礫の上に臥せてしまい、ほとんど死んだような姿になった。やがて大河内が茶を喫し終わり、しばらくして朗読を継続して曰く
  『重き咎科に処すべきところ、格別の御慈悲を持って
   罰金の免除を申しつけるものである。』
それを聞いた内山某、卒然として蘇生の思いを感じたという。
 後日、このときの裁判担当、大河内正英が朋友に語ったところによれば、
  「内山某が砂礫上に伏せただけでも懲罰の目的は若干達している。
   彼に大打撃を与えずに罪を許せば懲罰にならない。朝令暮改の
   罰金免除と云うが、これは新政権の寛大さを示し、人心を掌握
   するためのものだった」
これは故黒田孝富の精神を没却することになり、復讐的に前政権の裁判を覆すだけに過ぎない。人民をしてむやみに迷わせるだけに終わったようである。

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