東海道の昔の話(82) 大黒屋光太夫との対話 3 愛知厚顔 2004/6/15 投稿 |
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【当時の漂流民】 厚顔 『桂川甫周による「北槎聞略」は幕府から、 「絶対に極秘扱いであり、あへて他人にしゃべった り書いたりしてはならない」 とされ、みだりに人にその内容を漏らすべきではな いとされました。鎖国の日本では幕府はロシアの生 の情報が世間に漏れることを恐れ、世情の混乱を避 けようとしたのです。結局、この本の内容を世間の 人が知るのは明治維新を迎えた後のことでした。』 光太夫 『そのころはロシアの漁船が近海に現れたり、 イギリスやフランスなども近づいてきたはずです が…、』 厚顔 『全国の各藩や一般民衆の間で湧いてきた、 「外国の様子が知りたい」 という願望は、もはや止めようもありませんでした。 貴方はロシアの最新の事情を知る人でした。多くの 藩や庶民はその経験談を知ろうとしてました。』 光太夫 『水戸藩のやほかの藩もラックスマン使節からの情報 収集したくて、松前に調査に来ていたそうです。』 厚顔 『いろいろな段階で、貴方がたからの聞き書きの類は、 数多く書写され流布しました。ある学者も江戸時代 の漂流の文敵は多いけれど、大黒屋光太夫の関係が 一番揃っている、と言ってます。 造船技術が貧弱な昔、遭難事故は日本ではよくあり ました。生還者は貴方の前にも後にもいろいろいま した。 寛永二十一年(1644)の越前竹内藤右衛門の遭難 をはじめ、いくつかが知られています。 寛政五年(1793)に遭難し、レザノフに伴われて生還 した仙台若宮丸津太夫もいます。』 光太夫 『私も大槻玄沢さまから仲間十七人の事を尋ねられま した。文化十年(1822)遭難の尾張国の徳乗丸船頭 音吉さんらも、「船長日記」を残されてますね。』 厚顔 『音吉はマレーシアで聖書の翻訳もしています。 また幕末ではジョン万次郎の漂流も有名です。 江戸時代は長い鎖国政策もあって、極端に外国事情 の情報が少なかったのでしたが、明治維新の後は 貴方がたの漂流物語、ロシアでの生活と帰国の事情な ど、だんだんと知られていきました。 ことに少年少女読者をターゲットに、漂流やシベリア 横断などの冒険談は胸を躍らせたといいます。』 光太夫 『私たちの漂流譚が競って書かれ、少年達に愛読された ようですね。こうした時代背景があって、新村出が 論文を発表しました。また明治の末には、亀山町 (現亀山市)県立女子師範学校で講演し、光太夫のこと を紹介しました。』 厚顔 『いま「開国曙光」の碑が鈴鹿市役所若松支所に建立さ れてますが、この時代のものでしょうね。』 光太夫 『そうでしょう。また名著「女工哀史」で有名な 吉野作造も研究をされています。』 厚顔 『昭和になってから、ある学者がドイツのゲッチンゲン 大学図書館で貴方の遺品を見つけました。これがその 手紙の写しです。』 光太夫 『ああ、これは私がペテルブルグから船主の江戸の 白子屋清右衛門に宛てた手紙です。ヨーロッパでは 戦争の最中だと書きました。結局届かなかったのです ね。』 厚顔 『ほかにも貴方がイルクーツクとペテルブルクで描いた 日本地図三枚、そして日本から持参した浄瑠璃本 「花系図都鑑」などを発見しています。安永八年 (1779)のロシア使節の蝦夷地厚岸における接見の絵な どもあります。』 光太夫 『この絵は厚岸でのロシアと日本との初めての会見図 です。日本側代表は松前藩の浅利幸兵衛、ロシア側 代表は、ラストチュキンと思います。絵を描いたのは たぶんシャバーリンだと思います。』 厚顔 『長い間わからなかった貴方の墓、それが四十年ほど前 に鈴鹿市若松東墓地で発見されました。非常な朗報で した。』 光太夫 『また地元の歴史家も私のことを熱心に研究して頂いて いました。奥村高孝先生にはいまも感謝していま す。』 厚顔 『そう。それが井上靖の「おろしや国酔夢譚」や吉村昭 「大黒屋光太夫」の誕生に繋がっていったのですね。 ところで日本に帰り江戸に住んでのち、一度も故郷に 帰らなかったのですか?』 光太夫 『いいえ若松村に享和二年(1802)四月二十三日から 六月三日まで帰郷し滞在しました。自分の墓を見たの も驚きです。伊勢神宮にも参拝しました。 しかしこの帰郷のことは、私はほとんど日誌や記録 に残していません。』 厚顔 『いま若松小学校にブロンズの大黒屋光太夫像がありま す、これは昭和六十二年六月に制作されたものです。 平成四年には白子新港に井上靖文学碑 「大黒屋光太夫讃」と記念碑「刻の軌跡」が作られま した。 イルクーツク市では「露日交流の記念碑」が作られ ています。碑は周囲の白樺の木立と建物のバランスが 実に見事です。』 戻る 〔続く〕 |
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