東海道の昔の話(84)
 大黒屋光太夫との対話 5  愛知厚顔   2004/6/15 投稿
 
【ロシアの人たち】 

厚顔  『貴方がロシアで会った人々は六十人余にのぼっていま
     す。エカテリーナ女帝など歴史上の人物もありますが、
     大半は役人か一般人で貴方に好意を持った人物ですね。
     また日本人では帰国のとき根室から松前の間での、二
     十人余です。最大の恩人であるキリル・ラックスマン
     はどんな人物でしたか?』
光太夫 『彼は十七の言語と文字に通じ、頭脳明晰で博学多才、
     しかも温厚篤実の大人物です。この人にはいくら感謝
     の言葉を尽くしても言い足りません。』
厚顔  『日本に使節を派遣するのに重要な役割を果たした
     ベスポロツコについて、貴方は人に憐れみの少ない奴
     とか、親切にしてくれたとか、評されてますが?』
光太夫 『あの人も役人という立場を超え私たちに親切でした。
     感謝しています。』
厚顔  『貴方は桂川甫周の質問の中でも世界をアジア州、
     ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、そしてロシアと
     通商している国を五十二ヵ国挙げています。
     また皇帝の治めている国として、 清国、ペルシア、
     ムガール帝国、ヨーロッパでは、ロシア、ドイツ、
     オスマン・トルコなどが挙げられています。、
     この時代に、世界の覇権を争っていたイギリス、
     スペイン、ポルトガルなどは王侯が治めている国と
     説明されていますね。』
光太夫 『判らないことや不審のときには、桂川甫周先生は、手
     持ちのオランダ語の地理書を見てその根拠も説明し、
     補足して頂きました。だからかなり正確なものになっ
     たと思います。』
厚顔  『貴方や桂川甫周は世界地理に関して、驚くほど正確な
     認識を持っておられますね。』
光太夫 『私の知識はロシアの友人から教えられたものです。
     言葉や国は違っても同じ人間です。人情に違いはあり
     ませんよ。』 


厚顔  『貴方はロシアのピョートル大帝のことを、中興の祖で
     聡明叡智にして新たに政令をたて、風俗、衣服、礼法
     の昔の悪習を改めた英君と評価しています。
     ピョートル大帝については北方戦争でスエーデンを破
     り、ロシアのバルト海方面進出を確実にし、官僚制度、
     軍事制度を確立した人ですね。』
光太夫 『大帝のことはロシアの人からよく聞かされました。
     あの国では非常に尊敬されていました。』
厚顔  『エカチェリーナ二世はどうでした?』
光太夫 『私が女帝に会ったのは一七九三年ですが、桂川先生と
     聞き取り作業していた頃は六十四歳と思います。
     帝は北ドイツの貴族のご出身とか聞いてます』
厚顔  『貴方はほかに、風土、結婚、葬礼、官制、時刻、租税、
     度量衡、武器、年中行事など七十六の項目についても
     桂川甫周に説明してますね。』
光太夫 『帰国して日にちがまだ経ってません。私の記憶もまだ
     鮮明でしたから、知っている限り全部お話しまし
     た。』
厚顔  『それにしても実に驚異的な貴方の記憶力にはただ驚く
     ばかりです。カムチャッカで貴方に会ったレセップス
     は
      「彼は面前で起こりまたは語られる事柄に注意し、
       忘れないようにすぐにノートに書き留めた。
       彼はその思うことを人にわからせるだけの
       ロシア語を話す。だが彼と会話をする時には
       その発音を聞き慣れる必要があった」
     と貴方の語学力を評価しています。』
光太夫 『ロシアで生きていくうえで、どうしてロシア語は必要
     でした。必死で覚えたんです。 帰国後もオランダ
     通詞の馬場佐十郎さんにロシア語を教えました。』
 

厚顔  『文化八年(811)国後島で幕府役人によるロシア船
     ディアナ号船長ゴロ−ニン捕縛事件がありました。
     その報復として翌年に高田屋嘉兵衛が連行される事件
     が起こりました。その交渉のときロシア語の通訳をし
     たのが馬場佐十郎でした。貴方の努力がこうゆう形で
     実っています。
厚顔  『さて貴方はロシアをオロシアと書いておられます。
     井上靖の小説の題名も「おろしや国」と「お」がつい
     ています。これはどうしてですか?』
光太夫 『これは私の発音のせいですよ。伊勢弁では母音がその
     前についてしまうのです、つまり「ロシア」と言おう
     とすると、自然に「オロシア」と言ってしまうの
     です。』
厚顔  『そうなんですか。長年このことを不思議に思っていま
     した。いま氷解した思いです。ところで貴方がたの
     その後の日本での生活はどんなものでしたか?』
光太夫 『私たち二人は寛政六年六月、江戸番町明地薬草植付場
     の寓居に移されました。私は四十四歳、磯吉は三十一
     才でした。いわば体のよい軟禁でしす。
     そしてみだりに外国のことを喋るなと、私に三十両、
     磯吉に二十両の手当を賜りました。
      しかし、せっかく江戸の近くまで帰ってきながら、
     亡くなった小市の後家に対し、幕府は彼の遺品の全部
     と銀十枚、田圃を四石分、それに加えて亀山城主から
     銀十一両を頂きました。これは実にありがたいこと
     感謝しております。』
光太夫 『幸い私たちの寓居には桂川先生を始め、日本のトップ
     レベルの学者の皆様が頻繁にご訪問をたまわり、私を
     慰めて頂きました。私は半囚人のような後半生でした
     がそれも前半生に比べると、後の三十三年間は天国の
     ような生活でした。
      私の没年は文政十一年四月十五日、七十八歳です。
     磯吉は私より長生きし、天保九年七十五歳で没して
     おります。』 
厚顔  『本日は長い時間お話をして頂き、まことに有難うござ
     いました。』
光太夫 『どういたしまして、また機会があればお話をしましょ
     う。』
厚顔  『ではこれをまとめて、きらめき亀山21の温故知新に
     投稿させて頂きます。ありがとうございました。』

     戻る                〔終〕


参考文献   都築正則氏〔講演〕 桂川甫周〔北槎聞略〕
       井上靖〔おろしや国酔夢譚〕 
 
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