東海道の昔の話(91)
  ヤマトタケルへの質問1   愛知厚顔   2004/7/2 投稿
 

 
Q;貴方のお名前はいろいろ云われていますが、
  本当はどういうお名前ですか?
A:私の名前は古事記には〔倭建命〕、日本書紀では
  〔日本武尊〕、最近の作家や学者あるいは舞台で
  は〔ヤマトタケル〕と仮名書きが多いですね。
Q:貴方は景行天皇の御子とお聞きしていますが
  間違いありませんか?
A:私は第十二代景行天皇の子で幼名〔小碓〕(オウス)
  でした。私には〔大碓〕という兄がいて、私がこの
  兄を殺してしまうほど粗暴でした。
Q:それで父景行天皇から熊襲征伐を命ぜられたのです
  ね?
A:そうです。熊襲を討ち果たすと、すぐさま東国遠征を
  命じられました。私は叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に
  「父は私に死ねと言うのか」
  と、泣きつきましたが、叔母は素戔嗚尊(スサノオノミコト)
が大蛇の尾から取り出したという剣を一振りと火打
  ち石を私に授け、
   「万一の時に使いなさい」
  と云われました。相模の国で賊から火攻めに会い、
  草をこの剣でなぎ倒して難を逃れましたが、この剣が
  草薙〔クサナギ〕というのはここから来ています。
Q:貴方は東国遠征の帰途、尾張から伊吹山の神を退治
  に出かけたとき、どうしてこの草薙の剣を持ってい
  かなかったんですか?
A:まったくうかつにも忘れていったのです。これが
  伊吹山の荒ぶる神に敗退することになりました。
  あのとき草薙ノ剣を肌身離さず持っていけば、その後
  の運命は変わっていたでしょう。
Q:伊吹山で荒ぶる神が降らせた氷雨に打たれたのが元で、
  亀山の能煩野(ノボノ)まで来て命を落とされました。
  そして
   「大和の飛鳥へ還りたい」
  と望み、白鳥になって飛び去り、それを果た
  したしました。
  貴方が白鳥になって飛んでいったので、いまも白鳥と
  呼ばれるのですね。
A:そうです。陵墓にも白鳥陵と命名されていますし、
  白鳥神社など白鳥の名が多いです。
Q:草薙ノ剣はそのまま尾張の熱田神宮に奉られ御神体となった。
A:そのとおり、いまも神宮の神殿奥深く納められています。
  また市川猿之助のスーパー歌舞伎〔ヤマトタケル〕も
  なかなか面白い。宙釣りで白鳥が飛んでいくところなど、
  リアルですね。

Q:古事記、日本書紀では貴方は命(ミコト)であり、天皇とは
  書かれてませんが、幾つかの風土記には貴方は「天皇」と
  書かれます。
 〔常陸国風土記〕、〔阿波国風土記〕などは〔倭武天皇〕
  とか〔倭健天皇〕としています。また〔住吉大社神代記〕
  では〔父天皇〕と表記されていますね。
A:はい。そのためときどき私が天皇だったのではないか、
  という議論がありますが、私は天皇ではありません。
  これは伝承が形を変え表記されたのでしょう。
  神功皇后なども〔天皇〕と表記された例もありますから…。
Q:学者の中には貴方は架空の人物だとか、複数の人物だとか、
  あるいは団体機関の名だとか、いろいろ称える人がいます。
  本当はどうなのですか?
A:逆に私がお聞きしますよ。貴方はどう思っておられるので
  すか?
Q:私は学者でもありません。ヤマトタケルのフアンとして、
  ロマンがある方が良いのです。現に今日もお出でください
  ました。
A:それでいいのではないでしょうか。私の存在を疑ってしまえ
  ば、私のあらゆる英雄伝説も悲劇も草薙剣も、また三重県の
  名前も存在しなくなります。
Q:そうです。論争は学者にお任せして、私たちは貴方を心から
  思慕していきますよ。
A:今日のこの質問もその線でいきましょう。
Q:さて能褒野で貴方が瀕死の状態で詠まれた歌
  
    大和は国のまほろば たたなずく青垣
           山こもる 大和し美わし

  この望郷の歌は有名ですが、このあと能褒野に葬られた
  貴方の魂は、白鳥となって大和へ向かったのですね?
A:ハイそうです。この琴弾原に一度下り立ち、現、羽曳野市に
  ある旧市邑(フルイチムラ)に降り、その後何処ともなく天高く
  飛び去ったのです。
Q:琴弾原とはまた優雅な名ですね。
A:いまの奈良県御所市の琴弾原は、その昔旅人が休憩し居眠り
  をしていると、どこからともなく美しい琴の音色が聞こえて
  きて、辺りを見回すと、水たまりに水の雫が落ち、岩に響く
  音だった。その音色は、琴を弾いているような音であったこ
  とから、琴弾原と呼ばれるようになったのです。
Q:貴方の御稜墓は三重県亀山市・奈良県御所市・大阪府羽曳野市
  の三市にあり、一般に「白鳥三陵」と呼ばれています。
A:はい。そのゆかりから三市間で歴史・文化を契機とした
  友好を図り、町づくりのための交流を行っておられます。

Q:羽曳野市の陵墓は河内国旧市邑(フルイチムラ)にある白鳥陵ですが、
  考古学的には古市前山古墳と呼ばれています。能煩野から飛ん
  できた白鳥は、大和の国琴引原に降りた後、再び飛び立って
  ここに降りたのです。
A:はい、ですからここも日本武尊白鳥陵ですし、これと能煩野の
  陵墓を合わせて三つを白鳥陵と呼んで貰ってます。
Q:羽曳野の方は別名、軽里大塚古墳とも呼ばれています。
  墳丘百九十米の前方後円墳で、琴引原や能褒野の陵に比べると
  実に堂々とした古墳です。
A:この陵墓からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、衣笠埴輪、家型埴輪
  などが出土しており、五世紀後半の古墳と云う学者もいます。
  濠と言い、堤と言い、実に立派なので私の「日本武尊陵」と
  しては立派すぎる。悲劇の主人公の墓にしては似つかわしく
  ないという学者もいます。
のぼのの森公園
                     〔続く〕

 
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