Q:羽曳野は驚くほど大規模な陵墓です。だが私個人は
琴引原白鳥陵の方が、ヤマトタケルに相応しいくそれらしい。
大好きです。(笑)日本書紀では、白鳥はこの河内国旧市邑に
降りたが、他の文献では更に飛び立っていったとなっています。
A:いろいろ云われますが、わたしはロマンの多い話が好きです
から、やはり何処ともなく飛び去ったことにしてください。
Q:さて能褒野白鳥陵墓ですが、ここにはどう行けばいいでしょうか?
A:JR関西線の井田川駅前から国道1号線を横切り、住宅街の中を
抜けて三十分ほど歩いてください。右の方の安楽川にかかる
能褒野橋の北側にあります。古墳一帯は駐車場・案内板も整備され
「のぼのの森公園」になっています。
Q:陵墓はどのくらいの大きさですか?
A:能褒野の陵墓自体は、全長九十米、前方部経四十米、高さ六・五米
後円部径五十四米、高さ九・一米の空掘りをめぐらした前方後円墳ですが、
周辺に円墳もいくつかあり、五世紀初の鰭付朝顔形円筒埴輪が
出土しています。もとは丁字塚と呼ばれたそうです。
伊勢地方で第二位の規模の前方後円墳です。
Q:この陵墓はほかに何と呼ばれてましたか?
A:丁子塚の他にも「田村王塚」「能褒野王塚古墳」「日本武尊能褒野陵」
等の名称で呼ばれてました。
Q:以前はこの陵墓の周辺には公園など何もなかった。とくに第二次大戦後
の荒れようはひどいものだったと聞いてますが…。
A:最近になって市で公園として整備されました。駐車場も完備し、公園の
池の中には朝顔形円筒埴輪を模した噴水が立ててあり、水飲み台も
埴輪形です。隣には近世になってから造られた能褒野神社があります。
Q:能褒野の森の特色は?
A:能褒野神社、ヤマトタケル、オトタチバナヒメ命ゆかりの地です。
深い緑の「のぼのの森」公園の途中から、神社本殿へ行く道と陵墓へ
行く道とに別れて御陵に出ます。
Q:貴方は古事記によれば倭建命と言う字を当てていますが、日本書紀
では日本武尊です。これら記紀では貴方は東征の帰路、ここ能褒野
で死亡し、この地に墓が営まれたとされました。
A:この私の古墳は四世紀末の築造だそうですね。私の英雄伝説に関係する
北伊勢地域に存在する古墳群中では最大のものです。主墳を中心に大小
十六の陪塚があり、いわゆる能褒野古墳群が構成されてます。
その中核がこの御陵です。
Q:それ以来ずっとここにあるのですね。
A:そのとおりです。十世紀の初めに編纂された「延喜式」の「諸陵寮」
では、この陵の事を
「能褒野稜日本武尊在伊勢国鈴鹿郡
兆域東西二町 南北二町 守戸三烟」
と記していて、平安初期には日本武尊の墓は鈴鹿郡のどこかに実在
してました。それは約二百二十米四方の墓域をもち、墓守の家も
三軒ある相当の規模であったようです。またこの陵墓は有功臣墓と
され、毎年二月十日には中央から役人が派遣され巡検していました。
Q:江戸時代には尊皇論が台頭し、それに従って陵墓の探索・裁定作業
が進められました。貴方の日本武尊墓の探索も行われましたたが、
鈴鹿市加佐登の白鳥塚、同じく鈴鹿市長沢の武備塚、双児塚、
鈴鹿市国府町の王塚などを日本武尊陵に比定する論が出現しました。
けれどなかなか決着は着かなかったのでしたね?
A:その当時、候補地とされた主な古墳の所在は
@、白鳥塚(鈴鹿市加佐登)A、武備塚(鈴鹿市長沢)
B、双児塚(鈴鹿市長沢) C、王塚(鈴鹿市国府)
D、丁子塚(亀山市田村町名越)
などでした。
Q:この@の白鳥塚を強く主張したのは誰ですか?
A:それは本居宣長や平田篤胤ら江戸後期の国学者達です。幕末には
本居ら国学者の権威はそうとう上がっていたようです。
付近の地名に私の日本武尊に関係するのものが多いことなどの傍証も
あって、候補地の中でも最も有力視されてました。
Q:しかし同じ江戸後期の国学者、建部綾足はAの武備塚を支持した
説を唱えましたね?
A:そうです。車塚の上には歌碑を建立したりしました。武備塚は現在
では私の墓を守っていた墓守の建部(タケベ)氏の祖先の墓とする見方
が一般的だと聞いてます。
Q:Bの双児塚、Cの王塚の説もさほど強い信憑性はないそうですが?
A:どうもそのようです。
Q:Dの亀山市田村名越の丁子塚は、明治維新後も日本武尊の陵墓候補に
は登っておらず、明治五年には教部省も一時は白鳥塚を能褒野陵に
しようとしていたらしいのですが、明治十二年に内務省は突然、
これまで候補地にも挙げられてこなかった丁子塚を、
日本武尊能褒野陵と決定したのです。実に唐突で不思議な印象でした。
A:これは丁子塚が北伊勢地方では最大の前方後円墳である事、
周濠をめぐらし墳丘形式も古型式だった事、などがその理由と思われ、
私の日本武尊陵墓に一番ふさわしいと考えたからでしょう。
Q:明治十二年十一月十日、旧内務省はこの地を以って
ヤマトタケル(日本武尊)の墓として治定し、周囲に土柵、鳥居、
石階などを設けて守部を置きました。
A:これで確定されたようです。そして現在に至っています。
Q:先日もある学者が
「ヤマトタケルという一人の人物が実在したのではなく、
景行天皇配下の全国制覇軍隊の全体を指す組織機関名であり、
その最高司令長官は実際に景行天皇の実子、小碓(オウス)
であった。そして各地に転戦した将軍達は大和朝廷屈指の
猛者で、それぞれヤマトタケルを名乗ることを許されて
いた。或いは、帝の子を名乗ることも許されていたかも
しれない。そして各地を平定し、幾つかの国での故事が集大成
されて記紀に記録されたのではないか」
と述べられていますが、どう思いますか?
A:亀山市田村名越の能褒野、御所市、羽曳野市の三大白鳥陵は有名
です。しかし他にも「こここそ日本武尊陵だ」という場所が
ある事は事実でしょう。それを考えるといろんな学説も生まれる
のは不思議ではありません。
日本武尊陵の一つが、平安時代初期には鈴鹿郡のどこかに実在
していた事は間違いない事実ですし、ヤマトタケル伝承が、この
地方に多いということは、鈴鹿川周辺が、当時の大和朝廷の
東国経営上、重要な拠点にあたっていたという背景があったから
でしょう。
それは御所市や羽曳野市にもついても言えることと思います。
こういう議論が積み重なって真実が導き出されるのです。
これからもヤマトタケルに興味を持っていただき、多いに議論
して頂くことをお願いします。
Q:本日はどうもありがとうございました。
A:こちらこそ、また機会があればお呼びください。
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戻る 終わり
参考文献 「鈴鹿市史、第一巻」 「鎌井松石資料」
「三重県史料」
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