上野新黒門町にある亀山藩江戸屋敷で、今日ちょっとした騒ぎがあった。奥向きの御女中が祐筆に手伝わせ、身ずくろいをしようと化粧箱を開けてみると、その底に入っているはずの金子が無い。
『ここに入れあった金子を知らないか?』
驚いた御女中は奥向きの女ども全員に問いただしたが、
『いっこうに存知ません。』
金子は全部で十五両という大金である。これは彼女が日ごろ藩から頂戴する手当てを、長い年月かけて貯めたヘソクリである。
『だまって消えるはずなど有りえない。』
これは奥向きの女どもの中に犯人がいる。御女中は半狂乱になり怪しいと思う奥向き女中を片っ端から調べていった。
一般に武家屋敷では「表」と「奥」とを使い分ける。
いま「表向き」という言葉は、私たちは「公然」という意味にして使っているが、元は武家屋敷からきている。表のつぎに中奥がある。表は役所か藩庁の執務室、中奥は官邸というところか。それから奥は私宅、自宅となる。大名クラスでは中奥に家族がごちゃごちゃいる。奥は奥方がいる。
奥向きの女中は老女が一番上席であり、通常江戸屋敷では数人の女中がいた。老女中のつぎが若年寄、役女として祐筆、表と奥の連絡係りとして表役がいる。
こんな屋敷の一番奥の部屋から金子が消える、誰が考えても犯人は内部にいると思うだろう。御女中は半狂乱になって犯人探しをしたが、まったく金の行方も犯人もわからない。
しかし表の間の男たちや殿の耳には入れたくない。金の性質が 「ヘソクリなので皆に知られたくない。」泣く泣くあきらめることにした。
それからしばらくしたある日、江戸城に登城した藩主、石川総安が大名仲間からふと耳にした。
『近頃あちこちの武家屋敷で金が消え失せている
という話だ。先夜は上杉弾正大粥殿の屋敷で
百二十両も盗られたそうだ。貴殿も用心される
がよい。』
その話がきっかけとなり、昨年の暮れには加等遠江守様がやられたそうだ。やれ細川越中守殿も松平上総守もやられているらしい。いろいろと噂が飛び交っている。
石川総安は屋敷に戻るとさっそく役向きを呼び
『きょう屋敷泥棒の話を聞いたが、我が屋敷では被害
が出ていないか調べてみよ。』
その結果
『実は数ヶ月前に奥向きの御女中が十五両無くして
おりました。』
『どうしてそのことを早く言わないか、もっと他に
盗難被害がないか調べよ。』
総安は我が藩の奥向きに被害が出ているのに驚いた。しかし人の出入り激しい表を通り、奥に侵入する盗賊など考えられない。
内部犯行か紛失の線が濃い、しかしひょっとすると有りえないことでもない。
『他にも被害が出てないか、徹底して屋敷全部を
くわしく調べてみよ。』
奥向きはもとより表も中奥も、公用金はもとより私用の金から物品も、すべて徹底的に調べあげた。その結果、奥の若年寄の手文庫から銀二朱と、べっ甲の笄が無くなっているのが判明した。
『どうしてそのとき調べなかったのだ?』
つい愚痴が出てきてしまう。
「いまさら犯人探しは出来ないし、屋敷内部での事件で
は町役人に届けも出せない。これは放置するしかない
だろう。」
『以後は各自で保管を責任もって厳重にせよ。』
と指示するに留まった。
ところが天保三年〔1832〕五月四日、浜町の松平宮内少輔の屋敷で一人の盗賊が召し捕られた。この盗人は小柄で痩せ気味みるからに貧相な中年男である。ところが役人が吟味を進めていくうちに、彼がとんでもない大盗賊であるのが判った。
この男こそ本名を次郎吉と云い、世間は鼠小僧次郎吉と呼んだ大物である。寛政七年(1795)生まれで歌舞伎の中村座の木戸番をしていた父の長子である。逮捕されたときは三十八才。
子供のときから手癖が悪く、評判の悪餓鬼だったが、大きくなってなんとか鳶職人の職を得た。
ところが賭博に身を持ち崩してしまう。彼はこの賭博仲間でも割に評判はよかった。というのも彼は絶対に勝ち逃げをしない。勝っている間はいつまでも賭場にいる。負ければ金が無くなるからやっと帰る。勝った者がいなくなると賭場が寂れる。
それ故に他の者に義理が悪いと思ったのか、彼は賭場を途中で切り上げることは絶対にしなかった。こんな賭博がいつまでも続くわけがない。金が無くなってしまうと、行きつくところは盗賊の道である。彼は小柄痩身で鳶職出身、盗人としてこんな都合の良いことはない。
文政六年ごろから忍び込みを始めた。
二十八の武家屋敷に三十二回も盗みに入ったという。文政八年に一度捕らわれて刺青され追放の憂き身にあったが、その後も武家屋敷に七十一ケ所、九十回も侵入して荒らし廻ったという。
〔続く〕
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