東海道の昔の話

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サブタイトル

作者

●  加佐登白鳥塚〜能褒野陵(178) ウォーキングクラブ「亀山あるこうかい」がJR加佐登駅から白鳥塚、荒神山そして能褒野陵をウォークするという。 愛知厚顔80代 男性
● 伊藤百川を語る(177)  世の中には実に不思議な縁で結ばれた話がある。
亀山市亀田町出身の日本画家、伊藤百川がそれだった。 
愛知厚顔80代 男性
●  地誌に記された仙鶏の山域
(176) その1
     その2
江戸時代の地誌といえば、安岡親毅の「勢陽五鈴遺響」(天保5年1834)に代表される。なかでも亀山市地域にある野登山、仙ヶ岳、御所平などの部分は、他の山域に比べて非常に詳細に記されていて、いま読んでも驚くほどである。 愛知厚顔80代 男性
● 津坂東陽の和歌の講義(175) 名歌と称賛される歌でも地理を知らず、方角や距離感覚を無視したのがあります。皆さまはどう思われますか。のちほどゆっくりご意見を拝聴しましょう。 愛知厚顔70代 男性
● 飯沼慾斎と小野蘭山(174) 慾斎は十二才になった寛政六年(1794)家出を実行する。
 『父からはなかなか許しが得られない。ついに意を決して単身家を出た。
愛知厚顔70代 男性
● 松平乗邑との対話(173) 本日お越し頂いたのは、貴方が書かれた「亀山訓」を読んでとても感動したと、遠方の方からメールを頂戴したためです。 愛知厚顔70代 男性
● 刀工、河内守国助(172) 私の本名は小林甚兵衛。伊勢亀山生まれの亀山育ちです。
 親が刀鍛冶をしていた関係で、幼くして私も同じ刀工の道に入りました。
愛知厚顔70代 男性
● 三つの亀山(171) 鶴は千年、亀は万年。むかしから長寿を表すお目出度い生き物です。
この亀の字を持つ、丹波亀山、伊勢亀山、山城亀山を考察してみます。
愛知厚顔70代 男性
● 陶芸家、仁阿彌道八の話
(170)
私と弟は子供のころから窯に出入りし、親や陶工の仕事を見よう見まねで手伝いました。そんなことから焼き物が生涯の伴侶になりました。 愛知厚顔70代 男性
● 陶芸家、高橋道八の話(169) 京都の陶器は天平年間(729〜49)に僧、行基が東山の清閑寺に窯を築いたのが始まりです。 愛知厚顔70代 男性
● 松平乗邑「亀山訓」(168) 亀山訓は将来藩主となる者への、幼少からの教育や心得について述べられたもので広く藩士たちの教育の基本という性格のものであったと思っている。 愛知厚顔70代 男性
● 亀山鍔(167) 世間から高い評価を受けた金工鍔が膝元で製作されている…。
この事実に驚いた亀山藩はさっそく城下の鍔の金工職人を探した。
愛知厚顔70代 男性
● 三宅康盛の思い出話(166) 新しい伊勢の地は三河とは何もかも違っています。まず言葉ですが、かの地では農民商人の間で知り合いに話しかけるときは「よーほい」とか「あのよー」ですが、亀山では「あのなー」とトーンダウンしています。 愛知厚顔70代 男性
● 山内一豊との対話(165) 『最近、伊勢の亀山で貴方が築いたと思われる砦跡が発掘されました。
一豊:『あれは天正11年に伊勢の滝川一益を攻めたとき、私は城を包囲
   する土塁をいくつか築きました。
愛知厚顔70代 男性
● 二つの亀山城主(164)  亀山という名前の城は丹波と伊勢、そして三河作手にありましたが、
私、松平下総守忠明は作手と伊勢の二つの亀山城主を経験しました。
愛知厚顔70代 男性
● 壬申の乱ウオーク(163) 戦時中の小中学校での歴史教育では、天皇を神格視したせいもあるせいか、天皇家の内紛に関する乱の話は、まったく教えてもらえなかった。 愛知厚顔70代 男性
● 上島鬼貫「続禁足の旅」(162) 人は旅好きの松尾芭蕉翁と比べ「東の芭蕉、西の鬼貫」と呼んでおられるようです。そこでこのように空想の旅を計画、その場所にいたような気になり、俳句を詠んで楽しみにしております。ようやく鈴鹿の急坂を越えました。 愛知厚顔70代 男性
●斉宮群行と鈴鹿頓宮(161) 鈴鹿頓宮は関宿の赤坂頓宮と同じ場所なのか…、それとも関所に近いところか、または鈴鹿市国府町あたりか、いや近年に礎石群や文字入り平瓦が出土している、鈴鹿市広瀬町だと、人によって違う場所を云います。 愛知厚顔70代 男性
●赤坂頓宮(160) 私がこの頓宮(トングウ)という名前を耳にしたとき、何のことやら判りませんでした。これが 「仮にかまえた宮、かりみや行宮」
の事だと知ると急に興味が出てきました。
愛知厚顔70代 男性
●上島鬼貫「禁足の旅」(159) 春の水ところどころに見ゆるかな
遠い山に霞がかかるのどかな春の野、柔らかな陽射しを浴び、菜の花や伸びはじめた草むらの間から、鈍く光る池の水や川の水がところどころに見える。
愛知厚顔70代 男性
●鈴鹿ノ関所と駅家(158) 鈴鹿山系は天然の要害となり、いくつもの主要街道が交差する関はまさに国の血脈を左右する場所です。ここに関所が設けられたのは納得ができます。 愛知厚顔70代 男性
● 能褒野陵としての
       武備塚(157)
古代の英雄ヤマトタケルノミコトの終焉の地は能褒野だと、紀記にはっきりと記載されていますが、それが能褒野一帯のどこなのか…、研究者はいまもって謎だとしています。 愛知厚顔70代 男性
● 片山神社の成立(156) 鈴鹿峠の片山神社はずっとこの場所に鎮座されていたものと思っていた。ところが「三国地志」によればどうも違うようである。 愛知厚顔70代 男性
● 林羅山と山鹿素行
    全5話 151〜155
天下分け目の関ヶ原合戦で東軍が勝利して足掛け十年、
  慶長十四年(1609)、伊勢亀山城でちょっとした騒動があった。
愛知厚顔70代 男性
● 二つの長瀬神社(150) かねてから長瀬神社と云う名前の神社が、こんな近くに二つあるのが不思議でした。一つは鈴鹿市長沢町、もう一つは亀山市菅内町にあります。この謎を少しでも解明できたらよいなあ…とパネル.ディスカッションを計画しました。 愛知厚顔70代 男性
● 天保五年の御所平(149) 「勢陽五鈴遺響」という書物がある。
 天保五年(1835)に著された伊勢国の地誌だが、この中に御所平の記述があり、その内容はいま見ても驚くほどである。
愛知厚顔70代 男性
● 鉄砲改め(148) 藩内の鉄砲の取扱いにはもっとも神経を使うことである。藩は真っ先に
  『各村人が所持する鉄砲の実態調査を行って報告せよ』と命じた。
愛知厚顔70代 男性
● 関観音山歌会考 『本日は、この歌会にご賛同給わり恐縮です。石薬師宿の佐々木弘綱先生も、やがてお見えになると思います。 愛知厚顔70代 男性
● 亀山城主、石川家の家紋
            (146)
丸に笹竜胆の家紋と石川家について、どういう関係だったのか…、
亀山出身の龍渓隠史、柴田厚二郎氏の研究を主に考察してみました。
愛知厚顔70代 男性
● ケンペルの旅日記(145) 鎖国の江戸時代に西洋人で、わが国を旅行できたのは、長崎出島に居留していたオランダ商館の人たちである。外国人が見た元禄時代の日本の様子、彼の日記からそれをつぶさに知ることができる。 愛知厚顔70代 男性
● 坂下宿の旅の歌人(144) 一人の男が小竹屋の前にたたずみ、街道を行き来する旅人の群れを眺めている。ここ坂ノ下は東海道の第四十八番目の宿場、難路の鈴鹿峠の坂の下の山麓に位置し、峠坂を登り下りする旅人で賑わっている。 愛知厚顔70代 男性
● 両尾町の彌牟居神社(143) 安楽川の川沿い両尾町平尾の東、安楽川に面する小高い丘の上に、不思議な名前の神社が存在することが判る。 『これはどう読むのか…、絶対なに意味があるぞ…』そう思い込むとさっそく調べにかかる。 愛知厚顔70代 男性
● 亀山の助郷一揆(142) 慶応四年(1868)、世情は騒然としていた。亀山周辺の村々の農民たちは密かに集合し、やがて鈴鹿堰(天神渡り)に集合しはじめた。 愛知厚顔70代 男性
● 秀吉の亀山攻め(141) 天正十一年(1583)羽柴秀吉の伊勢侵攻では亀山、峰、関の三城攻防戦がもっとも激戦であったという。 愛知厚顔70代 男性
● 岡本宗憲の朝鮮出兵(140) 豊臣秀吉の朝鮮出兵は日本側が得たものは何もない。ただ憎悪と悲惨な犠牲を残しただけである。この戦について賛成していた日本人はほとんどいなかった。 『まことに空虚な戦争であった。』 愛知厚顔70代 男性
●  長島一向一揆 (139) 永禄十二年(1569)、鹿伏兎豊前守宗心が近江の浅井長政の軍に加わり、
姉川の合戦で討ち死しました。宗心の二人の遺児、四郎は元服したばかりの十五歳、六郎はまだ十四歳でした。
愛知厚顔70代 男性
●夭折の天才画家 吉澤儀造
(138)

天才画家 吉澤儀造 地元で彼のことを知っている人は少ない。作品の多くはほとんど地元から離れてしまった。【吉澤儀造】の画を少しでも収集する努力と、また彼の業績を顕彰する姿勢がほしい。  愛知厚顔70代 男性
● 近江、姉川に死す(136-137) 永禄二年(1559)、浅井久政の長子の新九郎の祝宴に伊勢の鹿伏兎城(亀山市関町加太)から、はるばると参列した若者がいた。鹿伏兎近江守定長の長子、豊前守宗心である。 愛知厚顔70代 男性
● 織田信長の伊勢侵攻
             (134-135
永禄十年(1567)春二月、織田信長の大軍は北伊勢に侵攻した。
先陣は滝川一益である。彼は四千の兵を注ぎこみ、手強い宗教勢力がいる
伊勢長島を迂回して伊勢に入った。
愛知厚顔70代 男性
●北条早雲との対話(130-133) 『本日は時空を越えて、わざわざ冥府からお越しくださり、まことに有難うございます。戦国時代の一方の名武将として、貴方の評判は格別のものがありますが謎の多い人柄でもあります。本日は遠慮なく質問させて頂きます。 愛知厚顔70代 男性
● 亀山と応仁ノ乱(129)
応仁ノ乱とは、室町時代の文正二年(1467)から、文明十年1478)までの十一年間の戦乱の時代を指す。緊迫した京都の情勢を知った関豊前守盛元は、我が子の民部大輔盛昭、関の鹿伏兎城主の主な者を亀山城に呼び集めた。 愛知厚顔70代 男性
● 暴れん坊将軍の生母(128) 紀州の徳川光貞公が参勤交代でここを通過したとき、打田家に立ち寄り休憩したのです。そのとき娘の阿百合さまが、琴を弾いて公を持て成したのです。光貞公はその琴の音の見事さと、爪弾く容姿の美しさに大変感激されました。 愛知厚顔70代 男性
神木ナギの木(127)  関実忠がこの地方の支配者となり亀山城の開祖となった。
そして文永二年(1264)、亀山城の北にある葉若村(亀山市羽若町)に八幡宮、そして南野崎に熊野権現社を建立勧請したのである。熊野から持ち帰った神木は和名でナギと呼ばれるものだった。
愛知厚顔70代 男性
● 葛飾北斎の石大神(126) 北斎は昼も夜も画に励み二ヶ月ほどの後には数十帖の画を完成させた。
これは伊勢亀山藩領内にある石大神という岩です。これは岩全体が尊い御神体なのです。人々はこの岩を仰いで敬虔な祈りを捧げます。
愛知厚顔70代 男性
● 鶏足山野登寺縁起(125) 自然の猛威による山容の変化は人の知恵では計り知れませんが、お金儲けのためにこの聖域を破壊することは絶対に許してはなりません。野登寺がまします鶏足山、そこは伊勢に住む人々にとって母なる山であり心の山なのです。 愛知厚顔70代 男性
●亀山無線電信局(124) 亀山市亀田町に設置された亀山無線電信局。三本の巨大なアンテナ塔と局舎、そして隣接した場所には職員の官舎が建設された。この無線電信による航空機との連絡網の確立により、航空輸送業務の安全性は格段に高まった。 愛知厚顔70代 男性
●平信兼の生き様(121-123) JR加太駅の西北の背後に経塚山(628m)がある。白鳳のむかし人々が国土安穏、無病息災、西方浄土を願って、山頂に御経を入れた筒を埋めたとの伝説が残る。春まだ浅い二月、五人の男たちがこの山に分け入った。 愛知厚顔70代 男性
●俳句会〔伊勢さくら〕(120) 今日は明和三年(1766)旧暦三月四日、春爛漫の花日和です。
江ケ室の吐月さんからおよび掛けをして頂き、亀山と関にお住まいの方を中心に、今日はここ 江(えの)神社で一同に集まることが出来ました。
愛知厚顔70代 男性
●亀山城主の国替え(119) 延享元年(1744)春の三月一日、亀山藩主、板倉周防守勝澄に対し幕府から『備中松山(岡山県高梁市)に移封を命ず。』と命令がくだった。
亀山城はたちまち大騒ぎになった。
愛知厚顔70代 男性
●菅茶山と関の宿(117-118) “関で泊まるなら鶴屋か玉屋 またも泊まるなら会津屋か“ 
いずれも関では評判の知られた旅宿である。文化十一年(1814)その脇本陣の鶴屋に五人の男が泊まった。
愛知厚顔70代 男性
●野村の忍山神社(116) 亀山には由緒ある社がいくつか存在します。野村の忍山神社もその一つです。昔の鈴鹿川は、あちこちに湿地を作り、川の本流もこの社の前を流れていたようです。野鳥や獣の天国でしたから、弥生人たちも住み着きました。 愛知厚顔70代 男性
●むかしの大地震(115) 東海と南海の大地震は安政元年(1854)の大地震からすでに百五十年も経過しており、地震エネルギーは完全に蓄積が終わっていて、いつ地震が発生してもおかしくない状況にある。 愛知厚顔70代 男性
●西行の鈴鹿峠越え(113-114) 人間としてこの世に生まれることは、遠い宇宙から糸を垂らして、海の底にある針穴を通すほど難しいといわれます。人は幻に過ぎぬ栄華に心を奪われ、当座の縁にすぎぬ妻子に束縛され、来世で苦しむ因縁を結ぶ。 愛知厚顔70代 男性
●流されびと英一蝶(109-112)

●流されびと英一蝶 2 の関連

およそ亀山の出身者で、この人ほど有為変転の生涯を送った人はいないであろう。幼少のころから絵が得意、いつも周囲を驚かすほどの絵を描いていた。一蝶は江戸に到着すると、すぐに絵師、狩野安信の門に入った。 愛知厚顔70代 男性
山辺の御井(108) 伊勢神戸藩主、本多伊予守忠貫は儒学者、磯部長恒に対し  『歌人山辺赤人の屋敷跡があった旧跡は、我が領内か亀山藩領内か?。』と尋ねた。 愛知厚顔70代 男性
鬼平と亀山藩屋敷(107) 池波正太郎さんの傑作「鬼平犯科帳・五月雨」に描かれている亀山藩江戸屋敷の協力ぶりとは・・・・・ 愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(101-106)
西村謹吾の生涯 1-6
赤報隊の西村謹吾は亀山藩士のころは山本鼎と名乗っていた。
彼の波乱の生涯とは・・・・・・。
愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(99-100)
鼠小僧次郎吉
怪盗、鼠小僧次郎吉。士農工商の身分制度の中、何も生産活動をしない武士が威張っている。 その鬱憤を少しでも鼠小僧が晴らしてくれたのであった。 愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(97-98)
谷文晁の日本名山図譜
太綱寺縄手の松並木からも、険しい岩の山稜に生えた松が彩りを添えている。山頂の雀の頭から左にかけては、鋭いギザギザの尾根が延びている。これが小雀の頭と呼ばれる尾根だろう。 愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(95-96)
和算の先生
亀山藩が開設した藩校、明倫館は藩士に限らず志あるものは町民や農民の子弟でも受け入れ時代を先取りした開かれた学校であった。そこでもとくに人気が高かったのは、数学すなわち和算を教える九思堂である。 愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(93-94)
かわひたり餅
大阪冬の陣、謹慎中だった石川主殿頭忠総にも出陣の命がくだる。
大阪城の北には深い湿地帯が広がっていた。真冬の真っ只中である。水は腰まである。その寒気は兵たちの身体に激痛を与えていた。
愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(91-92)
ヤマトタケルへの質問
亀山市の能褒野の他にも「こここそ日本武尊陵だ」という場所がありいろんな学説もあります。ヤマトタケルに登場ねがってインタビューしました。 愛知厚顔70代 男性
東海道の昔の話(87-90)
二人の剣士
亀山の剣道道場、山崎雪柳軒と幕末の美剣士、伊庭八郎の関係は・・・・
世情混乱の幕末を背景に剣に生きた生涯を語る。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(85-86)
 中江藤樹の妻
わが国に革命的思想を始めて説いた中江藤樹。明治になってからあの内村鑑三は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳らとともに、中江藤樹は代表的な日本人であるとし、いまの宗教指導者など足元にも及ばない思想家だと言わしめている。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(80-84)
大黒屋光太夫との対話
厚顔  『貴方の貴重な体験や見聞を、改めてお伺いします。』
光太夫 『もう江戸幕府に遠慮しなくても済む時代です。なんでもどしどし質問してください。忘れたり記憶違いもありますが、できるだけ思い出しましょう。』
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(79)
備中中津井陣屋
藩主双方の交代によって備中阿賀郡中津井村の十三ケ村が石川総慶へ与えられ亀山藩の飛び地となった。
明治五年正月(1872)、この中津井村で突如暴動が発生した。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(77-78)
尾張藩の横車
幕末動乱の真っ只中にあった。
そんな六月のある日、尾張藩から一通の書状が亀山城に届いた。天下の御三家、六十一万石の大藩からである。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(74-76)
稲富流砲術ものがたり
戦国の真っ最中各地の武将たちは競って稲富流から砲術の技術を習得しよ
うとした。亀山の市役所近くに名川六郎右衛門宅跡の石標があります。この人も稲富の一族です。また稲富直系のご子孫も市内の江ケ室に住んでおられます。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(63-73)
亀山藩の明治維新
大正年間に発行された龍渓隠史(柴田厚二郎)著、「鈴鹿郡野史」は、当時まだ存命だった維新の複数の当事者にインタビューし、正確に史実の確認をしている。私は日ごろから歴史物語としても大変面白いと思っていたので、まだ未読の方々はぜひ読んでいただきたいと願っていた。本来の記述は難解な古文だが、ここでは現代文にして概要を紹介したい。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(62)
桑名義士、森陳明
慶応三年(1867)桑名藩は徹底抗戦を主張する派と官軍に恭順する派が真っ向から対立する。桑名藩目付の森陳明がひそかに亀山藩江戸藩邸を訪問した。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(61)
赤報隊エレジー
官軍の先鋒隊「赤報隊」の一番隊長相楽総三、どうして彼が味方であるはずの官軍から殺されたのか…。それにはまことに摩訶不思議な時代背景があった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(60)
治水の功労者,生田理左衛門
藩は堤防を二重に築き、さらに深い避水溝を設けて浸水を誘導するようにした。
しかしまったく効果がなかったのである。そこで生田理左衛門に、この治水の大役を仰せつかったのである。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(59)
天保年間の災害
天保八年(1837)八月十四日の朝、人々が恐る恐る外に出て我が家をみると、これはもう惨憺たる有様である。屋根瓦はめくれてすっ飛び、戸障子は破れてまるで鳥かごのようである。亀山城を見上げると、  『あれッ西丸がない!』 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(58)
仏国公使館事件
もし亀山藩が言葉の行き違いから西洋の列強と紛争を起こしていたら、とても軽い処罰では済まされなかっただろうと思われる。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(54-57)
冥府対談、亀山敵討1
亀山人なら誰でも知ってる石井兄弟の仇討。今回は〔道中亀山噺〕でおなじみの近松半二先生をお迎えした対談です。石井源蔵、半蔵、三之丞と赤堀水之助登場
                                  全4巻掲載
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(53)
豪商、橋爪市郎兵衛
関宿の富豪、橋爪市郎兵衛は一代で巨万の富を築いた。 彼は若くして京大阪で丁稚から身を起こし手代、番頭と修行をしながら商売のコツを学んだ。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(51-52)
幕末天狗党の悲劇
元治元年(1814)尊皇倒幕の同士六十三名が筑波山で挙兵した。水戸天狗党の旗揚げである。亀山脱藩の小林平太郎は、天狗党の本陣を訪ねた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(46-50)
明和五年の農民一揆
明和三年(1766)幕府の命令で亀山藩は甲斐国の河川浚渫工事を行った。
このため藩は莫大な出費となり、藩の財政は危機的状況に陥っていた。
領内の農地検地の実施がきまり農民百姓は大恐慌を起した。
世にいう亀山農民一揆がとうとう起こったのである。全5巻掲載
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(45)
近江佐々木氏と関氏
このころ亀山、関、鈴鹿市付近には、関五家と呼ばれる関氏一族が伊勢国北勢で最大の勢力を誇っていた。関氏の祖は平清盛の孫、資盛につながる。その六代目関盛政のとき、五人の子供に亀山、鹿伏兎、峰、国府、神戸の五城を守らせた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(44)
老中を辞退
江戸在勤者は国許を『彼らは天下の形勢を少しも判らない無能無知なる集団だ。』とけなせば、国許は江戸の連中を『国元の様子を知ろうともしない、口ばかり達者な連中だ。』とこき下ろす。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(43)
日本鋳物師頭
治承四年(1180)[平氏の南都攻め]で東大寺は焼け落ちた。大仏の修復に、中国から仏工の陳和卿を招き起用した。そして実際の鋳造をする鋳物師集団の頭梁に、亀山出身の神田五太夫が選ばれた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(42)
幕末京都の二人
『この男は伊勢亀山藩の者です。あやしい者ではありません。元は私の同僚だった男です。名前は生田周馬と言います。どうか許してやってください!。』
小堀清太郎は刀を持つ近藤の手を押さえて必死である。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(41)
亀山藩領内の切支丹
島原の乱のとき、亀山藩領河芸郡三日市村の農夫が三人も、一揆に加わっていたことが判明した。彼らはどうやって数百里の遠い土地の乱に参加したのか、どうやって信仰を持つようになったのか…。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(38-40)
実録、荒神山の血闘
荒神山観音寺は伊勢巡礼二十二番の礼所。 幕末には亀山藩領、神戸藩領、それに幕府直轄領が複雑に入りくんでいるため、犯罪者が潜伏したり博徒が大賭場を開催したりする絶好の場所だった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(37)
亀山の烈婦の話
登勢は髪を結うにもワラで結び、ボロボロの衣を身にまとい、乞食のような身なりで雇われ、人の田畑を耕しては一銭、一厘という僅かな賃金を得る生活でした。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(36)
本町心中
自由に恋愛もできなかった時代の、哀れな出来事。あわれ嘆きは有明の、月さへ同じ月なれど、二人見なれし夢枕、いまは冥途へ出ずる旅、 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(35)
野登山の雨壷
延喜十四年(914)のときである。この年の夏はまれにみる大旱魃となった。人家の井戸水も涸れ、田畑の苗も枯れてしまった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(34)
三子山
鈴鹿峠にむけ高度を上げる。すると峠の右に形がよくて同じような山が三つ並んでいるのが目に飛び込む。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(33)
家康の遁走
明智光秀は突如として本能寺を襲撃した。家康は堺を出発したのち山城、伊賀、
伊勢をとおり、伊勢湾を舟で横断して四日の深夜に三河に上陸したのである。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(32)
鈴鹿権現、片山神社
坂下宿に火事は発生しないといわれる。この宿場はむかしから業病、火災、落雷がなく、火を嫌うことは伊勢神宮や加茂神社と同じである。しかし・・・・・・・・ 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(31)
ウス岩、キネ岩
神聖な山の上で牛馬の贓物や骨の類を燃やし、煙りや悪臭を発生させて神を怒らせる。その結果、雨が降ってくるというわけらしい。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(30)
白浪の自白
天保八年(1837)二月。大阪天満の元与力、大塩平八郎の乱。亀山藩の残党狩りで挙動不審な男が・・・・さては大塩平八郎の一味であり首謀者か? 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(29)
関地蔵の縁起と功徳
天平十三年(741)、聖武天皇は僧、行基を伊勢神宮に使わされた。行基は関の里で、一心腐乱に彫刻をはじめ一体の見事な地蔵菩薩像が完成した。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(28)
関地蔵の開眼供養
わが国の地蔵さまでは、もっとも古くて立派だといわれる関の地蔵院。地元の人々はいつでも御参りができ、実にうらやましいことである。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(27)
壬申の乱の道
大海人皇子の一行が伊賀国を越えて鈴鹿の山を越えようとされたとき闇夜で道に迷われた。光を頼りに進まれたところ山中に柴の庵を結んで翁と姥が住んでいた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(26)
旅日記〔旅の命毛〕 
土屋茅淵は大阪堺奉行、土屋紀伊守の妻女である。文化三年(1806)桑名から鈴鹿峠までの旅を女性らしい、やさしい眼で途中の感想を記している。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(25)
「暗夜行路」の亀山
大正三年(1914)十月。志賀直裁は伊勢神宮を参拝し、その帰りに亀山で下り、亀山神社の建っている城跡の方へいってみた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(24)
関宿の旅人模様
関宿の賑わいは享和三年(1803)には、百軒ちかくもの店が増えて軒を連ねた。飯盛女や宿女もだんだんと増え、遊女屋も賑わってくる。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(23)
仙の石
亀山の最高峰、仙ケ岳の東峰に奇妙な石がある。どうしてこんな山頂に不思議な形の石があるのか… 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(22)
蝦夷(えぞ)桜
関地蔵院の庭園は伊勢国の七名園にあげられるほど見事なものである。
この築山の頂上に八百年の風雪に耐えて生き続けていると伝えられるえぞ桜・・・・
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(21)
琴の橋
琴の橋の場所は、関宿の南裏明神にかかる橋とか、坂下の片山神社より東の方の橋。坂下宿の駅の東の橋という説、また市之瀬の弁天の橋のことだとか…。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(20)
一里塚
塚には、樹齢三百年を越すと思われる椋の大木がある。 椋の木の一里塚は江戸時代でも珍しく、全国でも数本あるだけで当時でも話題の塚である。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(19)
亀山の名医
私は死んでも怪我や病気で悩む人を必ず助けます。いつか私の墓所に清水が涌き出ますから、それを服用してください・・・・伊勢の国、亀山の名医 三折とは・・・ 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(18)
蜀山人の旅
彼の名は大田南畝、号を蜀山人。人は江戸きっての文化人と云う。
寛政から享和に改元された年(1801年)、江戸を出て京都への旅を思い立った。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(17)
太岡寺縄手の悲劇
左手は鈴鹿川の瀬がわびしく光り、はるか右の山々からは冷たい風が吹き下ろす。街道の両側には松並木が黒々延々と続いている。じつにわびしい場所である。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(16)
能古茶屋と布気神社
野村一里塚をすぎ、しばらく歩くと能古茶屋跡の前を通る。
この能古茶屋は芭蕉の友人だった俳人が経営していたという。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(15)
幕末の旅人 
元治二年九月のはじめ、二人の侍が伊勢坂ノ下から鈴鹿峠を目指して登っていた。二人とも新撰組の幹部であった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(14)
飯沼慾斎と本草学の仲間
ときは安政年間、鎖国の時代に生きる植物学者たちは、何とか西洋先進国から学問知識を得ようとして努力を重ねていた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(13)
頼山陽の伊勢参り 
東の箱根と並ぶ天下の険の鈴鹿山。 男は感慨無量の面もちで、波乱の生涯を振り返っている。男の名は頼山陽、このときちょうど五十才だった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(12)
秀吉の伊勢侵攻
攻めるほうは大軍で重装備、守る側は天然の要害、ゲリラ戦で対抗する。これにはさすがの秀吉も攻めあぐねてしまった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(11)
好色一代男
坂下は東海道第四十八番目の宿場である。山間の村としては宿場に頼って生きる道しかなく、旅人相手の飲食屋、茶店などが多かった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(10)
シーボルトの参府旅行
『…この魚は初めてみるサンショウウオだ。これほど見事な大物はなかった。おそらく新しい発見になるだろう…』 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(9)
孝子万吉
いまの時代は孝子とか賢母とかは少しなじまない。しかしつい最近までは、これ
が美談として顕彰されたのである。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(8)
大高源五の旅
吉良邸討ち入りの四年前、浅野公の一行が筆捨山や鈴鹿川の景色を愛でる絶好の場所藤ノ木茶屋で休息していた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(7)
芭蕉の句碑
近江国の膳所宿の宿、俳偕の巨匠、芭蕉を迎えての句会が催されていた・・・ 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(6)
野登寺の石灯篭
長尾治右衛門重教の寄進した野登寺の石灯篭は無残な姿に変わってしまったが、修復保存されることを願っている。  愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(5)
筆捨山故事
『ああ…この景色はとうてい自分の才能では描けるものではない…』
そうつぶやくと、男は手にした絵筆を思いっきり高く放り投げた。
愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(4)
源氏物語 賢木ノ巻
その昔、鈴鹿川は白い牙を剥いて流れていた。旅人は袖をまくって流れを越えた。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(3)
蜂の山賊退治
雲のような無数の蜂が盗賊に取り付いて、ことごとく刺し殺してしまった。 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(2)
鏡岩と女山賊
勇猛果敢な武人、坂上田村麿の女山賊退治とは・・・・・・ 愛知厚顔70代 男性
●東海道の昔の話(1)
関の小万と鈴鹿馬子唄
              補稿追加
絶世の美人、仇討の小万と遊女の小万の謎とは・・・・・・ 愛知厚顔70代 男性
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