【大政奉還】
そして慶応三年の末に驚天動地の【大政奉還】がおこなわれる。
実は十一月に江戸藩邸にあった石川成之に、幕府から内密に
『十二月に幕政は重大な局面を迎える。諸侯は急ぎ京に上られよ』
という連絡をうけていた。彼はすぐ帰国の準備をしていたが、今度は急に
『藩主の上京は中止されたい』
と命があった。これひとつみても幕府内の混乱がよくわかる。そして十二月九日に京都二条城にあった将軍徳川慶喜が、大政を奉還したのであった。石川成之は二十四日に亀山城に帰着したが、京にいた将軍は大阪城に去ってしまい、上京は見合わせた。
このとき将軍の大阪への移動にともない
『亀山藩は河内国守口駅を固めるべし』
と京都藩邸に命があった。これは京都守護職にあった松平容保の家臣、林権助の進言によるものといわれる。林はかって亀山藩の操練にかかわった縁があった。この命を受け竹田街道に展開していた藩兵二百人が守口駅に移動したが、実は軍資金がまったく底をついてしまっていた。
京都藩邸の責任者、堀池幸助は河内に飛んでいってその状況を把握し、国元へ
『軍資金の窮乏はいまや極限なり、至急送金願いたい』
と要請した。
これを受けたのが保守派の頭目、佐治亘理である。彼は先年隠居していたが、いまも隠然と藩政に関与していた。佐治は侍従医者、高田良景に相談したところ、高田は
『河内守口への移動は彼らが勝手に行ったこと。送金不要です』
という。この意見によって送金は見送られ、守口との連絡も停止されてしまう。この結果、年末には窮乏はなはだしく、守口駐屯の藩兵の食糧購入にも支障を来たす有様だった。
堀池幸助は思案したあげく、河内に石川家の支族で石川総管の所領七千九百石があるのを思い出した。幸助はさっそくその地におもむき代官の和田守人に
『亀山本藩の兵二百人が困っています。何とか助けてください』
と頼んだ。すると守人は快諾して
『いまや宗家所属の士が困窮しているとき、本国に意向を伺う
暇はありません。私の責任で貴方の要請に応えましょう。
のちに上司から譴責されたときは切腹あるのみです。ハハハッ』
高々と笑い飛ばした。そして倉庫から二分金三千両を出して幸助に渡したのである。
このとき守口に駐屯した藩士が、のちに郷土史家、柴田厚二郎に話したことによると
『軍資金の欠乏は実に悲惨でした。この実情を隊士に報告
すれば士気を喪失するし、商人は貸売にも応じなくなった。
その困窮はとても言い表せません。私たちを救った和田守人
の義侠心は生涯忘れません。彼は死を覚悟で三千両をだし
てくれたのですから…』
高田良景は慶応元年、尾張から亀山にやってきた医者である。
石川家とはまったく何の縁もなく、巧みに言葉をあやつり人にへつらう。
またおべっかを使って人の短所に乗じて自分を売り込む。とうとう家老、佐治亘理の邸宅に出入りするようになった。得意の弁舌で佐治の心をつかむと、医者の領域を超えて藩政にも口出しを始めた。佐治は良景の下心を見抜けず側近として重宝がった。
良景は前藩主、石川総和が土木を好むと知るや
『いかがでしょう、数奇屋風の別荘でも新築されては…』
と持ちかけ、南野村に数奇を凝らした蕎松館という邸を新築させた。
もちろんかなりの手間賃を懐に入れている。
嘉永年間に入ってから国事が多難となり、藩財政が窮乏のときなのに土木工事を行い城下の民衆を駆使する。人々の怨差の声が上がるのも無理はなかった。
そして守口駅守備の藩兵への送金を停止させ、飢餓状態に追い込んで類を佐治亘理にまでおよぼした。その結果、ついには自分の生命も失うことになる。その当時の揶揄
「載せた重みで扇がしわる」
扇面は佐治亘理の家紋であり、彼が土木業者から賄賂をうけとり私腹を肥やしたという意味にもなる。そうであっても賄賂金は佐治には届かず、すべて高田良景が懐に入れていた。佐治は保守派であっても汚職はしなかった。それは佐治が失脚したのち、たちまち生活が困窮したことからもうかがえる。
亀山藩では大政奉還にともなう世情を探ろうと、黒田孝富の逼塞を解き、佐藤造酒介とともに京都、大阪方面に派遣した。孝富は三条実美公に
『亀山藩はすでに勤王です。近いうちに藩主は兵を率いて京に
上ります』
と熱心に言上した。
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