東海道の昔の話(67)
   亀山藩の明治維新5     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【鳥羽伏見の戦い】

 黒田孝富と佐藤造酒介の二人が、京都に滞在しているうち戊辰の年
(1868)をむかえた。二人は改革派として終始一貫して藩を勤王側につかせるため、必死の努力を重ねていた。その当時の情勢を亀山藩京都駐在の鈴木知還も
  『いまや幕府にしがみついている時ではない。
   一刻も早く藩主、成之公に朝廷に参上してもらうときだ』
佐藤、黒田の二人は、いまにも会津桑名幕府軍と薩摩長州を主力の西軍
との間で、戦が始まろうという空気を肌に感じた。
  『このまま亀山に帰っても、誰も相談できる人がいない。
   こうなれば専断で成之公の名前を使うしかないだろう。』
と、いかにも亀山から急使が持参したように見せかけ、文書を作成し京都藩邸の鈴木の手から三条公に届けた。
  「御届
   このたび江戸を出発して亀山城へ帰りましたが、道中で
   病気になり療養中です。回復次第上京しますので、どうか
   しばらくご猶予をお願いいたします。
   公卿参与 殿           石川成之    」

 ときどき銃声も聞こえる。いまにも合戦が始まろうとするのに藩の反応はにぶい。黒田孝富はもはやこれまでと、勝手にどんどん行動を重ねていく。

 戊辰(1868)正月三日、京都滞在の佐藤造酒介は藩士を手分けして形勢を探索した。徳川が接収していた元亀山藩邸に立ち寄ってみると、誰もいない。彼はこれ幸いとそれを占拠し探索基地にした。
 ここから砲声の聞こえ方面に竹田街道を進んでいくと、日ごろから顔見知りの商人と出合った。彼は
  『この先へいくと捕虜になるよ』
と忠告してくれた。そこで造酒介は先をあきらめ引き返し、情勢報告を亀山に発した。
  「正月四日、暁より鳥羽伏見両道にて鉄砲始まった様子。
   薩摩長州と会津が撃ち合い一進一退のところ、だんだん
   薩長が優勢となった。双方とも多数の損害ある模様。
   亀山藩としてもこの機に精兵をすみやかに派遣されたし」
 とうとう鳥羽伏見で本格的な合戦が始まったのだ。藩の出先担当はいち早く情勢を把握し、朝廷側に味方して兵を送るよう促している。
 佐藤造酒介は翌日にも督促の書を出している。
なお勝手に占拠した幕府所有の元藩邸は、のちに三千両で売却して濡れ
手の粟の儲けをしている。

 
 このころ河内国守口駅駐屯の亀山藩兵はどうしていたのか、戦が始まると京都と守口間の連絡がまったく途絶え、京都の情勢が把握できない。
 正月四日、土佐藩士十数人が水路、舟で守口駅を通過し大阪に下った。
亀山藩兵士がこの通過を黙認したところ、幕軍の責任者が
  『どうして彼らを通過させたのだ』
と詰問した。そこでわが藩の兵士は
  『彼らは藤堂藩の守備している山崎からきたので許可したのだ』
と答えた。ところが
  『すでに津の藤堂藩は朝廷側についている』
と云った。それで幕府側の連合軍が大敗北したことが、やっと判明したのだった。

 正月五日、朝廷は黒田孝富を召しだして詰問した。
  『どうして亀山藩兵は幕府連合軍に加わり、守口駅の守備を
   しているのか?』
  『いやこれは何かの間違いです。藩主以下一藩あげて勤王の
   志厚く、もうすぐ精兵も戦線に加わるはずです。長年に
   わたる私や近藤鐸山の振る舞いを信用してください』
必死の言い訳にもかかわらず朝廷の疑念は晴れない。仕方なく孝富はその場を立ち去り、すぐ京都から守口に走った。そして
  『いま藩の存亡にかかわる危機である。本日をもって
   守口駅駐屯隊を解散する』
と専断したのであった。この鳥羽伏見の合戦を実見した亀山藩の一人はのちに語っている。
  「正月五日、幕府軍一万余人に対し高松と鳥羽両藩で糧食
   を供給していたがとても足りず、輸送中の握り飯も前線
   に到着しなかった。会津藩士らが前日からの激戦の疲労
   と飢餓と重なり、槍をついて食料の到着するのを待って
   いる姿は実に悲惨だった。これで翌日からの合戦で彼ら
   の士気が喪失し、沢山の死傷者を出したのは当然だと
   思った」

 鳥羽伏見で本格的な合戦となった正月三日、四日ごろ、亀山城下の様子をみると、幕府直轄の騎馬隊一個中隊や桑名藩兵が急いで城下を西に向かっていった。しかし彼らも大津まで進んだところで、官軍に阻止され退却をしている。
 その亀山藩に五日の鳥羽伏見の戦いの詳細な報告書が届いた。
それは幕府は賊軍となり官軍総督、仁和寺宮の錦旗のもと征東が命令されたとある。さっそく藩では軍議を召集し
  『藩としてどういう行動をしたらよいのか…』
と、けんけんがくがく改革派は意見がまとまらない。仕方なく
  『まだ上方の形勢が流動的です。もう少し様子をみたらどうか』
保守派も同じである。あれやこれや議論の末
  『大阪城の将軍と京都の朝廷の両方に顔を立てる。
   朝廷は京都駐在の連中にまかせ、大阪にも鉄砲隊を派遣
   しよう。藩主はそのあとで出発して幕府側に加わる』
という案を考えた。黒田たちが必死なって活動をしているのに、二又の策略を立てたのである。佐治亘理たちの保守派は、改革派に知られないようにして、こっそり鉄砲隊を山崎重樹に引率させて出発した。

 ところが鉄砲隊が関宿から大和街道を進み、津藤堂藩領の加太村から伊賀阿山郡佐奈具村までいったところ、伊賀上野城から出てきた一隊の兵に遭遇した。その隊長は
  『いま我らは貴藩の敵である。だからこれ以上の進軍
   を許さない』
これを聞いて我が亀山藩士は愕然、かの隊長はさらに
  『ここで戦って死んでも犬死ではないか、それよりすみ
   やかに帰国するのがよいだろう。亀山藩にも勤王の人
   がいるだろうから、もはや我らと同じ尊皇倒幕の道を
   とることは明らかであると思う。』
それを聞いて山崎隊長は帰国を命令した。そして藩にこの様子を報告した。そのうち京都方面から幕府軍の敗残兵が、続々と亀山城下を通過して東へ下っていった。黒田が解隊させた守口駅の守備隊も帰ってきた。
 その姿を見てさすが保守派の佐治亘理たちも、
  「もはや藩政を改革派に渡すしかない」
とあきらめたのである。
 やがて亀山藩もあげて勤王に藩論が統一されたのであった。

      前に戻る                (続く)

 
戻る