東海道の昔の話(68)
   亀山藩の明治維新6     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【改革派の政権誕生】

 戊辰(1868)の正月十二日、逼塞を命じられていた近藤鐸山がこの日ようやく開放さされた。実に四年四ケ月ぶりの藩政復帰である。さっそく軍事政事相談役に任じられた。藩内には黒田と近藤ほど勤王派として、朝廷や官軍に人脈を持っている者はいない。時代が彼の出番をどうしても必要としたのであった。
 
 黒田孝富が十五日に大津の官軍参謀から詰問された。それは
  『亀山藩士の三人を大和で捕縛した。彼らは河内守口駅の
   守備をしたあと、まだ幕府側で協力している、何故か?』
厳しい問いである。ここでも孝富は必死に答えた。
  『彼らは会津藩の林権助の勧誘で勝手に行動したものです。
   亀山藩は少しも関知してません。我が藩に勤皇の精神が
   あることは、開戦当日に京都駐在から朝廷の参與役所へ
   提出した願書、そして文久年間いらい私や近藤鐸山が
   藩の意を受けて奔走したのがその証拠です』
この言葉を聴いて朝廷は
  『よくわかった。貴藩を疑ってすまなかった許せ』
完全に疑いが晴れ、三人も釈放されたのであった。
あとでわかったが、はっきりしない亀山藩の態度いかんによっては、東下の途中で攻め潰す予定だったらしい。孝富の働きが亀山を戦火から救ったというべきだろう。 この釈明で許されると官軍から
  『官軍の先鋒に加わるべし』
との命が下り、官軍先鋒の案内として鈴鹿峠を越えて伊勢の地を進軍する。

 一方、守口駅から帰還した藩士四十名余の中には、かの地で飢餓状態に陥ったことが忘れられない。彼らの不満はひとつのグループを作っていく。
 彼らは物頭、平岩亮太郎を中心にして十数名となった。そして平岩亮太郎はまず同志の新太久馬を仲間に入れ、さらに黒田孝富を誘った。ある日、三人は揃って近藤鐸山に面会し
  『もはや高田は藩にとって毒虫です。
   私たちは彼を除きます』
と告げたが孝富は
  『もはや殺しあう時代ではない。他に策が
   あるだろう自重せよ』
と云って止めた。これが鐸山が事前に知っていて、避ける方策をとらなかったと攻撃されることになる。
 正月十三日の昼ごろ、藩侍従医の高田良景の邸が数名の男に襲われた。そのとき良景は障子のむこうから
  『誰だ!』
と叫んだところ
  『亀山藩の有志が推参!』
と応えがあった。良景は事態が容易でないのを悟り、危害が身に迫っているのを知ると、家族に急を告げて裸足のまま飛び出し、裏庭に面した隣家との塀を乗り越えようとした。それを追いかけていって捕らえた。

 良景の三男はいち早く逃走して難を逃れ、明治の終わりまで生きた。こうして良景と長男は井尻三昧に連れていかれた。斬に処せられようとしたとき、長男が父に
  『どうして一日も牢に入るとこなく、取調べもなしに
   斬られるのか。まるで夢を見ているようだ』
といったところ父は
  『さっきから何度も許しを請うたが許してもらえない。
   これ以上しゃべるともっとひどく虐待される。
   ここは黙って共に死のう』
と言い聞かせたという。そして二人は斬に処せられたのである。
 このとき二人を蛇蝎のごとく嫌っている人、哀れみを抱く人、怒号と歓声の中、黒田孝富はその間にあって苦渋の表情だったという。

 高田良景親子を殺害したことについて、藩は大目付、名川力輔が犯人の尋問にあたった。犯人らは自分たちの行為が正しいとの確信があり、逃げなかったのである。しかも良景親子の同情は少なく、犯人に対する処罰も軽かった。
 これがのちの黒田への報復的殺害の遠因につながったようである。
 高田良景は慶応三年ごろ尾張からやってきた医者。藩の石川家とは道義的つながりなく、たんに金銭だけで仕えた間だった。
だから佐治邸に出入りしても下僕、下女にいたる皆から嫌われていた。彼は二十八人扶持だが医者の収入を除いても百五十石に相当する。黒田孝富が抜擢されて郡代奉行になったとき、五十石だったのに比べても、いかに高待遇だったかわかる。
彼が弁舌とおべっかで栄達したのだが、医術の腕はたしかであったそうである。しかし藩政の内部まで干渉し、あげくの果てには他国で必死に奉公する藩士の、糧食を絶つという行為が命とりになってしまった。

 亀山藩が正式に官軍の一員になると、ただちに幕府直轄領の四日市占領を計画し、官軍の指揮者、木梨精一郎と海江田信義の了承をとりつけ、誠意を示した。
実際、四日市駅は守備の幕兵がいないうちに占拠できた。藩は近藤鐸山を桑名藩に派遣し、藩主の松平万之助に
  『もう抗戦は無駄です。官軍へ帰順をされては
   どうでしょうか』
とすすめた。
 桑名藩は京都守護職の会津藩主、松平容保と当時の藩主、松平定敬が実の兄弟でもあり、幕府側の有力な勢力である。その定敬は徳川慶喜に従って江戸に去り、最後は榎本武揚の函館戦争までついていき徹底抗戦をする。
 ところが地元の桑名では恭順を主張する政事奉行、山本主馬と、旧幕府側として抗戦を主張する軍事奉行、杉山弘枝らの派が激しく対立し、近藤鐸山の勧告もすぐ受け入れる情勢ではなかった。
 そうこうするうち近藤百助を隊長とする亀山藩官軍先導隊の百五十名が、鎮撫使一行とともに四日市に入った。
桑名藩はここにきてようやく恭順を表明し、亀山藩のとりなしで鎮撫使に許しを乞うたのであった。この前後にはニセ官軍の赤報隊処罰の事件もあったが、桑名城は無血開城となった。

 このあと二月に入ると、亀山藩は官軍の東海道先鋒諸隊のため、輜重輸送を担当し、東海道各地に旧幕府が租税として徴集し貯蔵していた金、穀物を軍事費として使う権利と、滞納租税追徴の権利を付与され、尾張、遠州から江戸へと進撃していったのである。

 二月始め黒田孝富が郡代奉行に任じられた。
これにより近藤鐸山とがっちりスクラムを組んだ革新派の政権ができた。二月末には保守派の三人が永蟄居となる処分もでた。
  永蟄居   元家老、佐治亘理 
        元年寄、細木渓疑
         年寄、伊那市左衛門
 ほかに逼塞、知行削減、免官などで保守派三十余人が処分された。

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