東海道の昔の話(69)
   亀山藩の明治維新7     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【敵対する保守勢力】

 戊辰(1867)七月の末になると官軍として東征していた藩士たちが続々と凱旋してきた。ところがそのころに
  「帰還した兵士の給与は減額されるらしい」
という噂が流れはじめる。それも
  「これは黒田の策略らしい」
この話を信じた藩士らは頭にきてしまった。もちろん根も葉もないことだが、ひとり歩きはじめた噂は止めるのが難しい。近藤黒田らの政府は躍起になって否定したが、手遅れになってしまった。城下の諸物価は高騰し生活をおびやかす。悪徳商人が暴利をむさぼる。
藩財政を圧迫しはじめる。これで改革政権は大きくダメージを受けてしまい、これで再び保守派が大きく台頭する遠因となった。

 戊辰十月、亀山藩は郡代奉行、黒田孝富の進言により藩主石川成之は藩の兵卒を従えて領内の巡視実施にふみきった。
藩主の同意を得たのがよほど嬉しかったのか、孝富はこのとき
  『わが君は民の心をよく知るまれにみる名君だ』
感激して周囲に漏らしている。ところが黒田の進言、意見が重役たちや藩主たちを動かし、革新的な施政が実施されるのが面白くない一派がいる。彼らはたいして佐幕派でもなかったのだが、
  「最近の改革派の黒田の態度がでかい、面白くない」
それだけの理由で黒田に反対する派閥ができていた。元家老の佐治亘理と彼の取り巻きである。ここでは現状肯定の保守派と呼んできた。
 その一例。
 江戸藩邸重役の近藤百助は江戸藩邸を出発し、寄合職にあった田辺納天を伴って十八日に亀山に帰着した。彼らが大手門から城内に入ろうとすると、門の守備責任者である塚本打右衛門が兵を集めて
  『何人も身元あやしい者は出入りさせるわけにいかぬ』
と阻止してしまった。
  『我らは江戸藩邸の近藤百助と田辺だ、
   知らぬわけないだろう』
すったもんだ問答のあげくようやく通行を認めたのだが、これには裏があった。近藤たちは黒田孝富に組する一派と塚本は思い、わざといやがらせをしたのである。彼は反黒田の保守派を自認する強硬派であった。

 この大手門でのやりとりは塚本の部下で、黒田に従う改革派の者が見ており
  『塚本は職権を乱用し、自分に気に入らない
   者を妨げている』
と藩重役に上訴した。調査の結果そのとおりだったというので
  「そのほうの行い不届き千万である」
と裁定され、塚本は大手門の守備責任者を免ぜられてしまった。
ところが塚本はこのことも根に持ってしまった。

 十月八日、藩主は兵卒をともない関宿周辺の巡視にでかけた。
ところが
  『殿の巡視も終わったのでこれか帰城する。出発!』
総物頭が命令を出したのだが、新任の小隊頭の数人が
  『我らは貴殿の命に従うよう云われていない』
と、いっこうに腰を上げようとしない。どうも理由にならない理由をあげて反抗的な態度である。とうとう藩主が直接
  『なにか揉め事があるのか、調べてまいれ』
と駕籠から声をかけた。側近が急いでかけていき争いの輪に
  『なぜ出発できないのだ?』
声をかけると、小隊頭たちは
  『いや総物頭が出発せよと命令を出さないんです』
まるきり違うことを云い、そして
  『殿に迷惑をかけられない。いざ城へ帰ろう。出発!』
行列は一斉に動き出した。総物頭の面目はつぶれてしまった。
一行が無事に亀山城に帰着したあと、この一件について調査がおこなわれた。その結果、このとき出発を妨害した連中は、保守派の塚本打右衛門に扇動された仲間たちだったと判った。

 黒田は自分に反対する保守派が、再び着々と勢力を増していくのに、ただ黙っているわけにいかない。彼は同じ考えの同志だった当時家老の近藤鐸山に
  『いま亀山藩内では無為の輩が藩政をおびやかそう
   としています。藩の主要な役目に誰を推薦したらよい
   でしょうか?』
と相談をかけた。近藤はこれによって、平井三二、勝田四郎兵衛など有能な人を推薦した。また黒田自身も兵制担当として大津與三郎、馬場諒右衛門、久米一平治などを推薦している。
 とくに馬場諒右衛門は正月十三日、守口警護の不満団が起こした高田良景暗殺の仲間と目され、
  『彼の任命は情実人事そのものだ』
と、保守派からきびしく指摘された人物だが。しかし後日これはまったく誤解だと判明している。

 亀山藩主、石川成之の領内巡視は順調に行われた。
十月上旬ごろは亀山より西の領内を見てまわり、住民に
  『なにか困ったことはないか、病気は大丈夫か』
など自分で直接に問いかけている。十日には河芸郡を巡回し十四日には三重郡の各村落を回った。この地が終わったあとは足元の鈴鹿郡の村々に入った。畑三郷、深溝、長沢(いずれも鈴鹿市)から岩森の近傍を済ませ、二十六日には池山周辺(亀山市)を終えた。
 この巡視に従う護衛士卒は二十名にも満たなかったという。

 城主の領内巡視と、その後に行われた国府山の猪狩りに随行した亀山藩士たちには、十月末に特別休暇が与えられた。彼らは自宅で休養をとるのが通例なのだが、この休暇をよい機会だと考えた人びとがいた。保守派である。彼らはこの日を
  『絶好の機会を逃すな!』
と極秘に決行の期日と決めていたのであった。そして某所に集合して数人がつぎつぎに登壇し、激烈な黒田攻撃のアジ演説を行った。しかし黒田孝富ほか彼の同志たち改革派の人たちは、誰もこのことを知らなかった。
 のちの大正五年ごろ、この集会に参加した一人が郷土歴史家、柴田厚二郎に語ったことによれば
  『そのとき演説を聞いていると、黒田孝富は
   極悪人の見本のような者であり、一日も早く殺害
   すべき人物だと思った』
この人は演説を聞いても、どうも納得できなかったところがあったので、黒田殺害には参加を断わったが、あとでよく熟慮してみると、
  『このときの弁士の発言は殆どウソだったのが判った』
ということである。柴田厚二郎は
  『その保守派の扇動者は芦谷吉右衛門でしょう?』
と聞いたが、彼は
  『葦者善也 蘆者悪也 善悪邪正 隋汝所見』
と云ったきり黙して語らなかった。しかし芦谷は有名な弁論家であり、子供や女も巧みに懐柔するほどだった。

  初霜や草葉にかかる朝寒し    韻史

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