【黒田孝富の最後】
戊辰の年(1867)十月二十八日。
夜半、数十名の保守派の叛徒は、どことなく三々五々と集まってきた。そして江ケ室の東西の路面に見張りを配置し、数十名が黒田邸を包囲した。そしていっせいに
「ガン!ゴツン!ガラガラッ!」
大きな石礫を屋敷に投げ込んだ。この音に黒田孝富は目を覚まし、戸を開けてみれば、沢山の群集が闇の中に高提灯を差して蠢いている。彼は容易な事態でないことを悟ると、病気で臥せっていた母にむかい小声で
『彼らは私が目的です。裏庭から逃げてください』
と母を背負って逃がした。そして
『これが天命です。私は逃げるつもりはありません』
と云って刀を手にして群衆の中に入っていった。
彼の姿を見つけた保守派の幹部、森次郎太夫が
『エイッ』
短槍をサッと胸にむけて突き出した。彼は浅い傷を負ったが立って歩ける。叛徒たちはそのまま黒田を連れ出し、暗闇の道を薄暗い提灯を灯しながら、興奮して声高にわいわいと井尻の三昧まで歩いていった。
黒田はすでに自分の運命が尽きようとしているのを察していた。
彼は群集にむかい
『諸君は私を殺して満足できるのか?、
私が今まで行った藩政で、御家老、御年寄の裁可
なしに独断で専決したことがあったか?』
激しい調子で問いかけたが、興奮している人々には聞く耳を持たなかった。やがて
「もたもたせず早くやってしまえ!」
の声に押し出されるように、大山岩太郎という若者が進み出て剣を抜き
「エイッ」
一刀で斬首した。
黒田は十月直前に江戸から帰国したとき母に
『王政はすでに朝廷に復古し、私の志は遂げられたも
同じです。もはやいつ死んでも憂いはありません。
そのときはどうか幼い子供たちのことをお願いします』
と、これを思うと彼はみずから死期を自覚していたのかもしれない。保守派の叛徒たちは黒田の首を三昧に晒し、その傍に罪状を貼り付けて、明るくなった家路を引き上げた。
黒田孝富の家は江ケ室の西の端にあったが、同志の徳森半兵衛の屋敷は江ケ室袋町、また同じ同志の馬場彦太夫の宅は江ケ室の東の端にあった。当夜は藩主巡行のお供や国府山の狩猟で疲れ、慰労休暇でぐっすりと熟睡していたので、この異変に少しも気が付かなかったらしい。
『近くに住んでいながら、なんてことを…』
翌朝になって同志の後藤安蔵の通報で始めて知り、絶句して涙がとまらなかったという。
朝になって黒田邸とその周辺に匿名の落首がみつかった。
亀山に松明ひとつともさねば
こんぴら政府で真っ黒だ
ここに云う「こんぴら」とは家老の近藤鐸山、年寄の平岩亮太郎を主力とする藩政府が無道暗黒だから、我われが高提灯を灯して黒田邸に乱入したのだ。「まっくろだ」とは黒田と暗愚の両方を指している。この行為は暗黒社会を照らすものであるとの示威宣言とも、あるいは単に三人を誹謗するだけの意味とも受けとられる。
前に戻る (続く)
|