東海道の昔の話(71)
   亀山藩の明治維新9     愛知厚顔    2004/2/2 投稿
 


【藩政の混乱】

 保守派の群集たちは黒田孝富を殺害したのち、主だった者たちは亀山城下を出て関宿にむかって逃亡をはかった。これを改革派の大津與三郎が、たまたま関宿の会津屋安五郎へ遊びにきていて知った。彼らが関に近ずいてくる気配を察すると、会津屋を出てから遠まわりして亀山城下に戻り、上司に
  『黒田さん殺害した連中が関宿にいるようです』
と報告した。
 家老、年寄はこれを知ると奥平貞一、市橋作兵衛ら二人を派遣し、殺害群集の幹部たちを召還することにした。この二人は保守派の幹部、芥川元祥と一緒に、江戸城虎ノ門の警備を担当したことがあり、この年の七月に亀山に帰国したばかりである。気心が知れた仲ならば犯人たちも安心して気を許すだろう。家老たちはこの二人の出発に際し、
  『彼らの中の石川治郎右衛門だけにはとくに警戒しなさい』
と注意を与えた。奥平と市橋はすぐこの上役たちの真意を察知した。
 二人は関宿に到着すると、
  『このたび亀山の巨賊を排除できたことは、まことに
   執着至極に存じます』
と味方のように祝辞をのべて相手を安心させた。そして言葉をついで
  『もはや「こんぴら」藩政府は転覆したのも同然です。
   安心して亀山城下へお戻りください』
といって、一行を亀山万町の誓昌院に誘導したのである。保守派叛徒の一行は二人の計略にひっかかったことに気がつかない。その隙に市橋は便所にいくふりをして寺を抜け出し、年寄格の市川数馬に報告した。
叛徒たちは
  『腹が減った。弁当を持ってきてくれ』
など近くに邸宅のある徳森半兵衛に要求して安心している。徳森は藩の第二鉄砲小隊の隊長であり、もっとも強硬派の石川治郎右衛門は第六鉄砲小隊、芥川は第七鉄砲小隊の隊長でもある。彼らは親戚兄弟よりも信義を通じており、お互いに協力して事を運んでいる。それを知った藩の上層部は急いで弁当を用意し寺に届けさせた。そして運び込むと同時に
  『それッ閉じろ!』
と寺の門を閉鎖してしまい、彼らを閉じ込めることに成功したのである。

 しかしここまでがやっとだった。このあとすべては変わってしまう。
まもなく保守派が藩政の実権を掌握すると、この犯人たちはうやむやのうちに放免されてしまい、挙句の果てには藩政の重要なポストに登用されるのであった。
      
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